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「ぜいとぅーん」76号

お知らせ

 

 パレスチナの生産者団体に注文してから商品が届くまで、半年かかってしまうような状況が続いています。ヨルダン川西岸地区内部(以下「ヨルダン川西岸地区」は「西岸地区」と省略)、西岸地区からイスラエル側、イスラエルから日本、そのすべての輸送の過程で時間とお金がかかります(いま船便も航空便もイスラエルを経由するしか手段がありません)。

港を出ても紅海が依然通れず、船はアフリカ大陸をぐるっと回るしかありません。船不足、コンテナ不足でアジアの積替港でも待たされます。紅海が通れた時より1ヶ月以上日数がかかり、船賃も高くなっています。

 「日本に届いたよ」と生産者団体に連絡するとみな「良かった~、ホッとした~」と返事をくれます。

 

オリーブオイルとザアタルの在庫状況

 オリーブオイル250ccがまもなく売り切れです。500ccはまだあります(賞味期限2026年4月)。ザアタルは品切れ中です。

新シーズンのオリーブオイルとザアタルは既に現地を出港していますが、日本に届くのは5月の予定です。

*新シーズンのオリーブオイルの賞味期限は2027年4月、ザアタルの賞味期限は2027年1月です。価格は変更ありません。

 

新シーズンのオリーブオイル

2024年度出荷中のオリーブオイルは、「ガリラヤのシンディアナ」(以下「シンディアナ」と省略)の契約農家さんのうちコフル・カドゥーム村農業協同組合(ヨルダン川西岸地区)からのナバーリ種のオリーブオイルです。

2025年度は、コフル・カドゥーム村のナバーリ種、アラーべ村(ガリラヤ地方)のスーリ種、アーラ村(ワディ・アーラ地方)のバルネア種、コラティーナ種のオリーブオイル4種類をいいバランスで組み合わせたブレンドになります。訪問時にそれぞれのオリーブオイルをシンディアナでテイスティングしました。どれも美味しく、味はこれが好き、香りはこれが好き、、、どれがいいとは選べませんでした。結果、オリーブオイルの風味の専門家であるソリアーノさんがブレンドがいいと判断、吟味して配合割合を決めました。

 アラーべ村のオリーブは灌漑してから初めての収穫でした。灌漑によって、収穫量が増えただけでなく味も軽やかに変わりました。

新シーズンのオリーブオイルの味の特徴については、入荷の際にお知らせします。

 

*テイスティング:(オリーブオイルの色は品質と関係ないが見た目に影響されないように)色付きのグラスにオリーブオイルを入れ、(香りが漂う温度に)手でオリーブオイルを温め、香りをかいでから、口に含め、空気を入れて味わい、飲み干して、喉や口に残る風味も確認します。

 

 2023年冬(10月中旬~12月が収穫期)は、裏年で収穫量が少なかった上に、イスラエル軍によるさまざまな制限や人手不足で収穫できないオリーブ林が多く、現地の市場価格が高騰しました。西岸地区全体で40%のオリーブ林で収穫ができなかったそうです。今シーズン、2024年冬はガリラヤ地方や西岸地区北部は豊作、中南部は例年通りでした。しかし、引き続き収穫が困難。道路や検問所の封鎖がいっそう厳しくなり遠回りなどで輸送コストが上がり、オリーブオイルの価格は高止まりしています。オリーブオイルの生産者団体「ガリラヤのシンディアナ」には「去年大幅値上げをしたまま、今年も価格を下げられなくてごめんなさい」と言われましたが、悪いのは生産者団体ではありません。

 円安もさらに進んで厳しい状況ではありますが、パレスチナ・オリーブの販売価格は据え置きます。

 

パレスチナの石けん<+Rm>(オリーブ石けんザクロ入り)の入荷

大変お待たせしましたが、やっと届きました! 前回より香りは弱いですが、しっとりとした使用感は変わりません。

*オリーブオイルやザクロペーストをそのまま使い、色や香りを調整していないので、毎回色や香りは微妙に違います。

 パレスチナの食用のヴァージンオリーブオイルと、実も種子も一緒に搾りペーストにしたパレスチナのザクロを練り込んでいます。ザクロは、パレスチナでも昔から美容に使われ、現代では「抗酸化作用があり、皮膚の老化を軽減し、シワを防止する」と言われています。

1個100g 1,000円(税込1,100円)

 

 オリーブ石けん<Basic>のオリーブ石けんは在庫が少なくなってきました。6月頃入荷予定です。

 

 オリーブ石けんは製造、フィルム包装、ラベル貼り、箱詰めまで、すべてナーブルスの石けん工場で行われています。紙箱も日本語のラベルデータを送って、ナーブルスの地元の印刷工場で作っています。製品の完成まで現地で行うことを大事にしています。

 

*日本での販売は、顔や体を洗う石けんは「化粧石鹸」として薬事法に則って厚生労働省からの「許可」が必要となります。設備を備え、薬剤師さんが常駐する「製造販売業」を持つ会社が輸入元となります。私たちの石けんも、専門業者を通して成分や製造方法等を提出して許可を得ています。そして輸入するごとにこの専門業者で全量検査を行ってからパレスチナ・オリーブに届いています。ラベルにはこの専門業社を「製造販売元」と書く決まりなのですが、石けんを作っているのはナーブルスの石けん工場です。

 

刺繍製品の入荷

 入荷しました! いま事務所で検品中、まもなくパレスチナ・オリーブのサイトにアップします。

 新たに、<タイル柄>ペンケースやポケット付きパースが届きました。

どの刺繍製品も様々な柄(モチーフ)の組み合わせでデザインされています。

 本来それぞれのモチーフには意味がありますが、数が多くパレスチナの女性たち自身も意味がわからなくなっているものもあります。

 

ポケット付きパースは「オレンジの花」の柄が入っています。この柄はモチーフ集で調べると「オレンジの花または妖精」と書いてあります。オレンジの花そのものの形ではありませんが、可愛らしい雰囲気がオレンジの花と妖精に共通する気がします。私はパックマンを思い出すのですが。

 トートバッグやトートリュックは色の種類を増やしました。三角リュックはなんと9色あります! 一つずつの点数は少ないので、ご希望の方は早めにご注文ください。

 

FOVEROのTシャツ

 パレスチナのストリートファッションブランドFOVEROのTシャツを、2月12日注文予約開始で販売しました。1週間でほぼ売切れましたが、柄・サイズによっては数枚在庫がありますので、サイトでチェックしてみてください。

訪問報告

 

 毎年の生産者団体訪問。2024年の12月から2025年1月にかけて約3週間行ってきました。前回は2024年4月に訪問したのですが、その時と比べても、状況は悪化、人々は疲れているように見えました。滞在中は「(第一次インティファーダ、第二次インティファーダの時のイスラエル軍の攻撃も過酷だったけれど)いまが人生で一番つらい」という声をあちこちで聞きました。

 訪問先によっては、写真家の高橋美香さん、フォトジャーナリスト(Dialogue for people所属)の安田菜津紀さん、佐藤慧さんとご一緒しました。

訪問先地図

 

イスラエル:1948年に建国を宣言。イスラエルの総人口950万人の約21%、200万人がパレスチナ人(イスラエル建国後も自分たちの土地に住み続けた)。法的・制度的にユダヤ人が優位の国家・社会のなかでマイノリティーとして暮らす(「アラブ」と呼ばれることも多く、通信では便宜的に「アラブ・パレスチナ人」と書く)。イスラエルではほとんどの地域で、ユダヤ人の町、アラブ・パレスチナ人の村や町、というように住むところが分かれている。

 

ヨルダン川西岸地区: パレスチナ自治区。1967年からイスラエルが軍事占領。1993年のオスロ合意以降の交渉で主要な町はパレスチナ自治政府の管轄となったが、それはヨルダン川西岸地区の18%の面積に過ぎない。パレスチナ人の人口は約330万人。約150ヶ所のユダヤ人入植地に70万人以上のユダヤ系イスラエル人が住んでいる。

*1948年以来エルサレムはユダヤ側の西エルサレムとパレスチナ側の東エルサレムに分断されていたが、1967年にイスラエルは東エルサレムを占領し、併合を宣言(国際法違反)。

 

*イスラエル内に住むアラブ・パレスチナ人、エルサレムに住むパレスチナ人、ヨルダン川西岸地区に住むパレスチナ人は別々のIDを持ちます。IDカードは常に持ち歩かなくてはいけません。パレスチナIDの人は特別な許可がない限りエルサレムに行くことはできません。

 

ガリラヤのシンディアナ

 シンディアナの事務所があるコフル・カナ村はナザレに近い、クリスチャンとムスリムがいるアラブ・パレスチナの村です。

シンディアナの事務所・加工場、ビジターセンターで働いているのは約15人。2人を除いて女性です(契約農家さんやアドバイザーの人数は除いています)。運営スタッフにはアラブ・パレスチナ人もユダヤ系イスラエル人もいます。

 オリーブオイルのボトル詰めなどを行っている作業チームの女性たちは5年、10年と長く働いています。まだ新シーズンのオリーブオイルのボトル詰めは始まっておらず、ギフトセットを作っていました(表紙写真)。

事務スタッフには、会計の新しいスタッフが加わっていました。働き始めて1ヶ月のジナーンさん。コフル・カナ村隣のトゥルアーン村から通っています。以前は少し離れたタイベリアの町で働いていたそうですが、状況悪化の中で彼女自身の通勤・移動が危険となり、また子どもたちだけで長く家に置いていきたくない、ということで近くでの仕事を探していました。夫が建設労働者で労災にあったときにマアンの支援を受けたため、シンディアナを知っていたそうです。

加工場マネージャーのファウジさんも働いて2年ほどになりました。機械の調整も担当しているので、オリーブオイルの蓋の問題点を話し合いました。蓋の空回りは長年の課題ですが、機械の性質上100%完璧にするのはやはり難しい様子です。申し訳ありません。

シンディアナの加工場・事務所の上階には、シンディアナの製品が買えるだけでなく、活動を知ったり、ワークショップに参加したりできるビジターセンターがあります。でも2023年10月以降、国内外からの訪問客が全くありません。以前は多い時は週に2団体の訪問があったのに、この1年半で団体客は4回だけ!なのだそうです。

 

*マアン:イスラエルとヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地で働くパレスチナ労働者を支援している労働組合。女性の活動支援などでシンディアナとも連携して活動しています。

 

デイル・ハンナ村の契約農家さん

 シンディアナの立ち上げメンバーであるアベッドさんと親族のオリーブ林は、これまで灌漑なしに育てていましたが、2023年にようやく許可を得て装置を設置、2024年冬は灌漑後初の収穫になりました。

 イスラエル内でも西岸地区でも、パレスチナ人のオリーブ林のほとんどは灌漑されていません。灌漑すると収穫量は5倍になりますが、水利施設の開発はイスラエル政府が厳しく規制し、イスラエルの水公社メコロットが独占しています。イスラエルだけでなく、西岸地区を含めてパレスチナ地域全体の水資源はすべてイスラエルが管理しているのです。

畑に湧き水があっても、その水をパイプで引くことはできません。地下水が豊富なのに、井戸を掘ることも禁止されています。作ると「違法だ」と壊されてしまうのです。

 アベッドさんのオリーブ林は、一画にメコロットの施設がつくられているため、その補償として施設から林に灌漑のパイプを引くことが認められました。もともと自分の土地の水なのにイスラエルの許可を得て高い水を買うのも理不尽なことです。

 

 ガリラヤのシンディアナの契約農家さんのうち、ナザレ近郊とアーラ村のオリーブ林は、灌漑した近代的なオーガニック栽培のモデルとなるように整地、植樹から始めたプロジェクト林です。この灌漑を認めさせるには膨大な書類提出と交渉だけで1年以上かかりました。しかもオリーブ林の近くには湧き水もあるのにその利用の許可はされず、許可されたのは数キロ離れた村から上水道のパイプを延ばすことでした。

 

<追記・訂正>紙版の通信76号で「デイル・ハンナ村」のところを「アラーべ村」と間違えて書いてしまいました(お隣同士の村です)。

 

コフル・カドゥーム村農業協同組合

 2021年にシンディアナの契約農家になりました。コフル・カドゥーム村はヨルダン川西岸地区北部、ナーブルスとカルキリヤの町の間に位置しています。

 ナーブルスの町から乗合タクシーでコフル・カドゥーム村の近くの待合せ場所に向かいました。ところが途中の検問所で大渋滞。乗客たちの間でも「検問所が閉まっているの? 混んでいるだけ?」「さあ、、、」という会話。なかなか進まない。ナーブルスから待ち合わせの場所まで何もなければ20分程度で着くところを1時間かかって着きました。

*乗合タクシー(セルビス):7人乗りのワゴン。ルート上でどこでも乗り降りできる。

 

 この農業協働組合は占領下での困難を乗り越えるために作られ、20年間みんなで良い農法を学び実践して、農作物の品質を上げてきました。フェアトレード認証や有機認証など各種の認証も取っています。団体に属している農地のうち、有機認定を受けているのは630ドナム、そこから採れるオリーブオイルは約67トン。さらに有機の認定待ちの土地が300ドナムあります。有機オリーブオイルが増えるのですが、地元市場では有機であっても価格が高くなれば売れないので、販売先を探しています。ただでさえ、この村のオリーブ林は丘にあって栽培コストが平地以上にかかり、売値が高くなってしまうそうです。

 

 話を伺った後に、その有機オリーブ林を案内して頂きました。丘陵地帯にあり、風の抜けて広々とした、とても気持ちの良い場所でした(表紙写真)。除草剤などを使っていないので、木の下には野生の植物も生えていました。春になれば野の花が綺麗なことでしょう。

 2024年は表年で、雨も多かったので豊作でした。雨の量が多いと、木が健康で病気をしない、また雨量が多いと害虫が死ぬ、というようなことも教えてもらいました。(このオリーブ林は非灌漑)

 

 この団体からシンディアナへのオリーブオイルの出荷量は、2023年冬は8トン、2024年冬は46トン! 

 私の滞在中にちょうど、オリーブオイルをコフル・カドゥーム村からシンディアナに運ぶところでした。まずは農業協同組合から、何枚もの写真とともに、村から出荷した報告のメッセージがシンディアナに送られてきました(私も見せてもらいました)。村からいくつもの検問所を超え、ヨルダン川西岸地区とイスラエルの境界線のイスラエル軍の検問所に到着。ここでは書類と品物の検査を受け、移送が承認されたら検問所の反対側で待機しているイスラエルのトラックにオリーブオイルを移します。時間がかかるので日中に着いてもその日に通過できるかわかりません。だから、なんと、トラックは前日の真夜中に境界線の検問所に到着。朝一番で検査を受けられるよう待っていました。「トラックが境界線に着いた!」という報告もリアルタイムで聞きました。

 そして翌日。「(いいニュースなんて何にもない毎日だけれど)今日はいい知らせがある! オリーブオイルがシンディアナの倉庫に着いた!」とスタッフから聞きました。「おめでとう!!」ハイタッチの気持ちになりました。オリーブオイルを運ぶだけでこれだけ大変、、、翌週は、その地域は完全封鎖になってしまったので(村からどこにも行けない、村に入れない、輸送もできない)、ギリギリのタイミングでした。

 

 コフル・カドゥーム村の近くには、この村の土地を奪って作られたケドミーム入植地があります。入植地に近い農地に行くには、DCO(占領当局)の許可が必要です。しかし、2023年10月以降はDCOからの許可が全く出なくなり、この村の6,000ドナムの土地に立ち入れなくなってしまいました(1ドナム=約1,000平方メートル、10アール)。

 

蜂プロジェクト

 シンディアナのビジターセンターに訪問客もなく、いつもの仕事がない状況で、シンディアナとマアンは、養蜂プロジェクトを始めました。養蜂はパレスチナで伝統的に行われてきましたが、このプロジェクトはハチミツを採ることではなく、減少している蜂を育てること自体が目的です。環境問題への気付きも広げていく活動として、半年のセミナーを開き、卒業生がそれぞれ始めた養蜂にアドバイスも行っています。

 自宅で養蜂を始めた、西バルタア村(ワディ・アーラ地方)のニジュメさんを訪ねました。

「最初は自分の子どもも近所の子たちも、怖がっていたけれど、ミツバチが刺さないとわかって、近所の子たちも毎日見にくる。」「子どもたちも私自身も蜂を観察することが癒しになっている」「蜂の社会、自然とのかかわりを見ると、人間社会のあり方も考えさせられる」そんな話をしてくれました。

 ニジュメさんは、ウンム・ル・ファヘム村(ワディ・アーラ地方)にある、ダウン症などの子どもたちが通う特別支援学校の先生です。自然科学や環境教育を担当しています。プロジェクトで学んだことを学校でも生かしているそうです。

 

 バルタア村はグリーンライン(1949年停戦ライン)で村が東西に分けられてしまいました。西バルタア村はイスラエル側、東バルタア村はヨルダン川西岸地区側。さらに隔離壁が停戦ラインを食い込んで建設されたため、東バルタア村の一部が事実上イスラエル側に組み込まれてしまいました。西バルタア村と、この切り離された東バルタア村との行き来は自由です。

 西バルタア村にいるとき、ドローンの音が聞こえました。ヨルダン川西岸地区のジェニンの町から10kmほどしか離れていない場所なので、西岸地区を飛び回る偵察・攻撃ドローンの音だったようです。

 

イスラエルの学校で教師であること

 シンディアナのユダヤ系スタッフの娘のケセムさん。私は小学生の頃から知っていますが、いま30歳前後です。

 平等な共存を目指して活動する両親の下で生まれ育ちました。ユダヤ人が優位であるイスラエル国家のあり方から変えなければならない、と考える立場です。「両親は普通の左派の立場とも違っていた」と、他の人たちとの考えの違いは感じながらも、友達も多く社交的な子どもでした。高校卒業後は兵役を拒否、1ヶ月ほど収監されました。ベルシェバのパレスチナ人(ベドウィン)の支援をしたり、イスラエル内のアフリカ難民の活動を支援したりしながら、イスラエルの大学を卒業。その後イギリスに留学、卒業後もイギリスでアフガニスタン難民女性の支援活動をしていましたが、イスラエルに帰ってきました。帰ってきた理由として「ロンドンは寒すぎた」と言っていましたが、いろいろな思いがあったことでしょう。

 イスラエルに帰ってきてからも、東エルサレムのパレスチナ人家屋破壊に反対する活動をしたり、エルサレムにパレスチナ人もユダヤ人も集えるビーガンのコミュニティカフェを作ったり(2023年末に閉店)、アフリカ難民支援を続けたりしてきました。

 2023年10月の後に仕事を変えました。パレスチナ人とユダヤ人がともに参加する団体のスタッフとして、2024年5月15日ナクバを記念する行事を開催しました。

 2024年秋から、シュタイナー系の私立高校で社会科の先生として働いています。ハイファ郊外にあるユダヤ人の町で、生徒もほぼその町の子どもたちだそうです。「学校自体も生徒たちも、左派リベラルではあるけれどラディカル左派ではない」「高校卒業後はほとんどの生徒が兵役に就く」と言っていました。

 「新任教師だし『親パレスチナの人』と安易にカテゴライズされたくないので、慎重に話している」と話していたのが印象的でした。本当は「どっち側」ということではないのに、「あの人は親パレスチナだから」と、それでくくられてしまうことはよくあることだそうです。

兵役について、生徒にどう話すかも難問。1956年10月、第二次中東戦争の際に、イスラエル内のアラブ・パレスチナの村である、コフル・カーシム村でイスラエルの国境警察が虐殺を行い有罪となったことを例に出し、「市民を殺害するなどの違法な命令には従ってはいけない」という規則について話したりしているそうです。しかし、実際には、毎日「違法な」攻撃が行われています。話の入り口として、ガザ地区でイスラエル兵が間違って3人の人質を撃ってしまった件を話したり、と言っていました。

 (パレスチナ人の困難さとはまた違う)難しさの中を奮闘している若い一人の女性。私に何かできるわけではないけれど、心からの応援を送りたいと思いました。

ナーブルス石けん工場

 ヨルダン川西岸地区の中でも北部へのイスラエル軍の軍事攻撃、封鎖などの締め付けがひどく、ナーブルスの町も周囲の封鎖が厳しい状況が続いています。ナーブルスの町に入るには5つの道がありますが、全てにイスラエル軍の検問所があります。幹線道路から町に入る検問所はもう1年以上ずっと封鎖で通れません。他の検問所は今日はどこかが開いていてどこかが閉まっている、という状況。「開いている」検問所でも、車一台一台をチェックしたり、片側通行にしたり、検問所の前は大渋滞になります。

 石けん工場は、ナーブルスの町と隣接するベイト・フリーク村の間にあります。ベイト・フリーク村から村の外に出られる道は一本だけで、そこに検問所があります。イスラエルの入植地に通じる道路と交差する場所なのです。そして、石けん工場は検問所のベイト・フリーク村側にあり、この検問所が石けん工場を苦しめています。

 

 私が工場に訪問する前日。「ナーブルスに着いている。明日はよろしく」と夕方に工場長のマジュタバさんに電話したら、「いま工場にいるけれど、検問所が封鎖中。いつ自宅に帰れるかわからない」と言われました。

 訪問翌日の夕方に(私はコフル・カドゥーム村からナーブルスに戻って)電話をすると、「いまベイト・フリーク村にイスラエル軍が展開している。検問所を通れるかどうかはわからない(検問所の様子を見に行くのは危険)。私が帰れなくても、うちで夕飯を食べて行って」という返事でした。

 

通勤の困難

 石けん工場で働く人たちは、事務スタッフ、製造スタッフ合わせて約15人。ナーブルスから通う人と、ベイト・フリーク村から通う人が半々くらい。女性も3人います。夕方・夜の検問所の封鎖でナーブルスの町に住む女性も家に帰れなくなり、工場に泊まったことがあったそうです。

 石けん製造とは別部門、オーガニックコスメ製造を担当するケミカル・マネージャーのムハンマドさんは少し離れたトゥルカレムの町から通っています。工場長のマジュタバさんは「彼はパーフェクト」と言い、大事なスタッフです。しかし、トゥルカレムと周辺は、連日イスラエル軍の攻撃が続いている場所。乗合タクシーに乗って、多くの検問所を超えて、あるいは封鎖した道路や検問所を迂回して遠回りをして、ナーブルスまで来るのは大変です。「今日は9:30に工場に着いたし(工場は8:00開始)、昨日は11:30。来れない日もある。」

 2月には、トゥルカレムと周囲の難民キャンプへの攻撃はさらに激化したので、彼の通勤はいっそう大変になっていると思います。

 

操業・売上への影響

 2023年10月以降、仕事上すべての状況が悪化しています。石けんの材料を工場に輸送するのも、製造した石けんを出荷するのも、全てが検問所次第。いつ通れるかわからず計画的に仕事ができません。遠回りしたり待ったりすることで輸送コストが増加、ガソリン料金も上がっています。

 ナーブルスからイスラエルのハイファ港まで何もなければ2時間の距離です。それが1週間かかったり、輸送の申請が却下されたり。港を出ても、紅海が通れないために2倍の時間と費用がかかります。海外の取引先のほとんどは商業的な会社で、コスト増によっていくつかの顧客は取引をやめました。注文が増えたのはイギリスのパレスチナ支援団体からだけです。

 売り上げが下がり、コストは増加。利益は半分になってしまいました。「仕事の基盤の何もかもが完全に破壊されてしまい、コロナ禍より悪い状況だ」と話していました。

 

ユネスコの無形文化遺産

 2024年12月、シリア・アレッポのオリーブ石けんとパレスチナ・ナーブルスのオリーブ石けん製造が、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。この地で500年以上続く、伝統的な石けん産業の価値が認められたのです。

 他方で、パレスチナの産業はイスラエルの占領によって潰されてきました。ナーブルスのオリーブ石けん工場も、1980年代には40以上あったのが2000年までに約20に減り、いまは3つの石けん工場しか残っていません。

 オリーブ石けん作りの価値が認められたのは喜ばしいことではあるけれど、産業を守るには、まずは占領を止めるべきなのでは??というのがパレスチナの人たちの本音です。

 

検問所ニュース

 ナーブルスに向かう車の中で、ラジオから「検問所ニュース」が流れてきて驚きました。「今日の天気予報」と同じような感じで、「今日はこの検問所は閉鎖されています。」「この検問所や付近の道路は通れます。」といったふうに、各地の「交通情報」を伝えていました。乗合タクシーのドライバーさんたちは、以前から、無線や電話で情報を共有し合ったり、すれ違う車のドライバーさん同士が窓を開けて情報を伝え合ったりしながら、今日通る道を決めるのです。しかしその5分後にはその道が通れるのか通れないのか、、、誰にもわかりません。

ナーブルスの町

 ナーブルスの中心部には、迷路のような細道に市場が並ぶ旧市街がありますが、すぐ近くには高層の商業ビルやショッピングモールも立ち並んでいます。

 ナーブルスの街中に、いままであまり見かけなかった、屋台のお惣菜屋さんが増えていました。知人によれば「イスラエルに出稼ぎに行けなくなったから、そういう仕事を始めた若者が多い」とのこと。することがない、少しでも稼ぎが必要。旧市街のお店で家庭で作った手作りオリーブ石けんをあちこちで見かけたのですが、それも同じ理由だろう、と聞きました。

旧市街付近では19時すぎにはほとんどのお店が閉まっていました。以前はもっと遅くまで営業していたのですが「夜はイスラエル兵がよく来るから危険」と。

 実際、私がナーブルス旧市街近くに泊まっていた日、20時頃に旧市街のカフェをイスラエル軍が急襲し、逮捕者・負傷者が出ました。私がそのニュースを聞いたのは22時半頃。宿の人に聞いたら「いまは撤退した」とのことでした。

 ナーブルス旧市街は、2022年夏からイスラエル軍の侵攻が頻繁に起きていました。イスラエル軍によれば「武装組織の拠点」ということでしたが、市場があって買い物客で混雑する場所なので、実際には多くの市民も死傷しました。

 イスラエル軍に殺された人たちは「殉教者」と呼ばれます。殉教者ポスター(亡くなった方たちの写真)は、パレスチナの町のあちこちで見ますが、ナーブルス旧市街では「殉教者グッズ」の販売が目に付きました。殉教者の写真を入れたキーホルダーやネックレスです。せつない気持ちになりました。

 前回4月の訪問に比べて、町には人が戻ってきていました。道路や検問所の封鎖により通学が困難・危険ということで、2023年10月以降オンライン授業になっていた大学は、やっと対面授業に戻ったそうです。それでもナーブルスのナジャハ大学はいまもときどきオンライン授業、と聞きました。

*大学進学率は男女とも50%前後です。

 

*イスラエルへの出稼ぎ:パレスチナの人たちはイスラエルへの出稼ぎに現金収入を依存させられてきました(参照:通信73号)。10月時点で、ヨルダン川西岸地区からイスラエルに出稼ぎに通っていたパレスチナ人は約15万人、ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地の工業地帯で働いていたパレスチナ人は約5万人。20万人というのはヨルダン川西岸地区の労働人口90万人のうちの約22%になります。

 エッセンシャルワーカー(医療・食料など)8,000人が11月頃から復帰、入植地の労働者の約半分が3月半ばに復帰していますが、大半の労働者はまだ仕事に戻れていません。

 イスラエル政府はさらなる外国人労働者で労働力を補うと発表しましたが、実際には増えていません。

イドナ村女性協同組合

 イドナ村はヨルダン川西岸地区の南部ヘブロンの町に近くイスラエルとの境界線沿いにあります。その位置のせいか、イスラエル軍による逮捕や家屋破壊、逮捕も頻繁に起きています。

 イドナ村から他の村や町につながる道は2本しかありません。そのうち、幹線道路から村に入っていく、メインの道路の入口ゲートがイスラエル軍によって、半年以上封鎖されています。これまでも、開いたり閉まったり、イスラエル軍兵士が検問していたりいなかったり、でしたが。

このため、私は今回初めて、ヘブロンから迂回路を通ってイドナ村に辿り着きました。他の村を通って山を越え、イドナ村の裏の方から入りました。半年以上続いている状況なので、ヘブロンからの乗合タクシーもこの迂回路を通っています。以前は15分程度でイドナ村に来れていたのが1時間近くかかります。時間もお金も余分にかかってしまい、住民には負担です。ガソリン代も高いのに、、、あらゆる商品が値上がりしている一因です。

刺繍団体のスタッフもヘブロンの町に刺繍の材料や布を買いに行きますし、出荷もヘブロンで乗合タクシーを乗り換えてベツレヘムなど他の町に行きます。

 商品の出荷予定も「状況が良かったら(出荷のために他の町に行ける状況だったら)、今度の木曜日に出荷する」などとスタッフから連絡が来ます。全てが「状況」次第です。

 

 刺繍団体の事務所は週3日オープンしています。刺繍担当の女性たちは、事務所に材料の布や刺繍糸を取りに来て、自宅で刺繍をして事務所に持ってきます。その刺繍し終わった布を縫製担当者がバッグ等に仕上げていきます。オープン日は、メンバーの女性たちが出たり入ったり。私が着いた時には、スタッフのほか、3人の女性が来ていました。団体に参加してどれくらいになるか聞いてみると「3ヶ月」「5年」「ずっと前からだから覚えてない」と返事(イドナ村女性協同組合は1999年に設立されました)。

村の男性たちがイスラエルに出稼ぎに行けず稼ぎがなくなってしまったため、この団体に仕事を希望する人が増え、メンバーは20人増えて50人を超えました。

 海外に販売している他、イスラエル内のパレスチナ人の町、ヤーファ、ハイファ、ナザレからアラブ・パレスチナ人が直接仕入れにも来ているそうです。実際、ハイファのパレスチナ人地区のお店でイドナ村女性協同組合の刺繍製品を見て驚きました。

 

ランチ

 私が訪問するときはいつも、スタッフの誰かがお昼ご飯を作ってくれて、製品の打ち合わせが終わったら、みんなで一緒に食事をします。野菜の価格もあがっていて大変、娘がタルクミーア村で会計として働いている、なんて話をしながらご飯を食べました。

 

 マクルーバ(炊き込みご飯)だったり、マハシー(ひき肉ご飯をナスやズッキーニに詰めたり、葡萄の葉やキャベツで巻いて蒸す)だったり。2年連続で同じご飯だったことはないので、何を出したかメモしているのかもしれません。今回はカブサでした。

 もともとはイエメンやサウジアラビアの料理ですが、広くアラブ諸国で食べられているようです。鶏肉でだしをとった、トマト味のスープでごはんを炊きます。スパイスたっぷりで、スライスしたアーモンド、グリンピース、にんじんなどが入って、上に鶏肉が乗っています。さっぱりとした(無糖)ヨーグルトをかけて食べるのがポイント。

 

*物価:イスラエルもパレスチナも物価は日本の1~1.5倍。野菜・果物だけは日本より若干安いと感じます。パレスチナは中央銀行も独自通貨も持てず、イスラエルの通貨シェケルを使っています。

 

ヘブロンの町

 ヘブロンは人口20万人超。ヨルダン川西岸地区で最大の町で商業・産業の中心地です。

 昔ながらの市場もあるし、大きなショッピングモールやスーパーもあります。そして、エルサレムやラマッラーなどの町よりも物価が安い。

 今回、ヘブロンの街中で、イスラエルナンバーの車を多く見かけました。エルサレムからかイスラエルからかは、わかりませんがパレスチナ人です。街中のホテルにも、イスラエルナンバーの観光バスが停まっていて、ガリラヤ地方からのパレスチナ人が宿泊していました。週末はなんとほぼ満室。交通費をかけても、ヘブロンの町で買い物をするほうが安いし、「(西岸地区支援のための)買い物ツアー」という意味合いもあるようです。

 

*車のナンバーの色:パレスチナで登録されている自家用車のナンバーは白に緑字で数字(タクシー等は緑の背景に白い数字、と逆になる)、イスラエルで登録された自家用車は、黄色い背景に黒字で数字となっていて、ナンバープレートを見たらどこの車かわかるようになっています。エルサレムの車もイスラエルナンバーです(国際法違反ですがイスラエルは併合を宣言しているので)。

FOVERO

 フォトジャーナリストの安田菜津紀さんや写真家の高橋美香さんが、2023年末にパレスチナを訪問した際に、偶然見つけた若者たちのストリートファッションブランド。地元の印刷工場や縫製工場と協力して、困難な状況のなかで仕事を作り出しています。

私は、2024年4月の訪問に続いて、今回12月にも訪問しました。前回の訪問の際にはエコバッグを注文して7月に販売。皆さんに大好評でした。

私と代表のジャウダードさんの打ち合わせ中、ジャウダードさんは他のスタッフが部屋に来るたび「エコバッグ150枚が6時間で売り切れたんだって」と伝えていました。

 FOVEROは多くのデザインをつけた服や文具をつくっています。オンラインショップで日本からも直接注文できます(英語)。

 オンライン注文でも日本から多くの注文が来ていることを、FOVEROのスタッフはとても喜び、励みになると話していました。

 12月末の訪問ではTシャツを注文しました。事前にFOVEROのサイトでデザインをチェック、注文したいデザインを選んでいたのですが。事務所に行ったら、新デザインがあるではないですか! ワクワクしながらデザイン選びました。

 「パレスチナの自然」シリーズ。前回販売したエコバッグに描かれていたのは、カモミール、ザアタル、ポピー、ジャスミン。他には、アネモネ、ザクロ、オレンジ、アーモンドの花(桜の花にそっくりです)などのデザインがあり、今回は新デザインの「いちじく」を選びました。市場では乾燥いちじくが、ネックレスのように紐でつながって売られています。FOVEROのデザインを見るだけでも、パレスチナの代表的な草花や果樹を知ることができます。パレスチナの国鳥のパレスチナサンバードの新デザインもありました。鶯くらいの大きさ、ハチドリやカワセミのような色鮮やかな鳥です。

 ストレートな表現ではなく、ユニークなデザインが多いのもFOVEROの特徴。今回気に入ったのは、「人生の半分が検問所」と書いてあるデザイン。私自身、パレスチナ滞在中、半分近い時間が移動にかかっている、、、と感じます。検問所で待たされたり、遠回りをせざるをえなかったり。パレスチナ人自身がこれをデザインするのはブラックユーモアだと思いますが、私が付けるのはどうかなあ、と思いながら、自分用にキーホルダーとマグカップを買ってしまいました。

 パレスチナには布を作る工場がないので、服やエコバッグの布地は主にトルコから輸入。ここでは、布を切って縫ってデザインを施して製品に仕上げていきます。今回は、布を保管、裁断している工場も訪問しました。型紙を布に手書きで写し、約40枚重ねて、電動カッターのようなもので一気に切っていました。

 Tシャツを縫っているのは隣町の縫製工場。働いているのは20~40人で、男性も女性もいるそうです。FOVEROの工場ではなく、地元の工場にFOVEROの衣服の縫製を頼んでいる、という形でコラボしてやっています。

 縫製工場もいずれ訪問したいのですが、今回は行けませんでした。効率よくあちこち回る、ということができないパレスチナ。何度も訪問する中で、今回はここ、次回はあそこ、と状況によって行けるところに行く、という訪問の仕方しかありません。

 海外での売り上げは少しずつ増えているとのこと。他方、残念ながら、観光客ゼロという状況でナザレの直営店は閉店。そのほかに、エルサレムとラマッラーに直営店があります。

ほかの町の様子

ナザレのクリスマス

 ナザレはイスラエル内最大のアラブ・パレスチナの町です。クリスマス前でしたが、観光客・巡礼客は全くいませんでした。町もホテルも受胎告知教会さえ、空っぽ。町の中にクリスマス飾りもありませんでした。地元の人に聞いたら、ガザ地区への攻撃が続く中、2年連続で「公にはクリスマスを祝わない、私的にだけ祝う」と町で決定したそうです。

 ナザレでは、昔は木工工房だった古い家を改築したというゲストハウスに泊まりました。私たちが、2023年10月以降初めての海外からの宿泊客だったそうです。宿のお母さんは「(宿泊客への朝食をつくるという)いままでの仕事が恋しかった!今日は嬉しい!」と言っていました。

 (ヒズブッラーのミサイルが危険だということで)レバノン国境に近いイスラエル北部には政府のから「避難命令」が出ていました。ユダヤ系イスラエル人の町の住民と、アラブ・パレスチナの村の住民の双方に対してです。観光客がいなくてナザレのホテルは空っぽなので、政府がホテルを借り上げ、「避難者」が宿泊していました。ヒズブッラーとの「停戦」後も、すぐには戻れないので(人手不足で家々の再建が進んでいない)3月までは政府の借り上げが続く予定だそうです。しかし、アラブ・パレスチナ人の多くは「二度と家に帰れなくなる恐怖」で、家には帰れなくても自宅近くの地域に戻りました。一時的にと思って離れた人々が二度と故郷に帰れなくなった、1948年のナクバを思い起こしたからです。

 大きなホテルは避難所となった一方、小さいホテルやゲストハウスには何の援助もありません。宿泊客のない状況で休業しているところも多いそうです。

 

ますます進む東エルサレムのユダヤ化

 エルサレムは1967年にイスラエルが占領、その後併合を宣言。パレスチナ人が住む東エルサレムは、旧市街も周辺地区も、行くたびにイスラエルの旗が増えています。パレスチナ人の家屋を奪い、ユダヤ人入植者が住み、アピールに旗を掲げているのです。

東エルサレム、シルワンのブスターン地区では、約100軒の家屋破壊、1500人の追い出しをエルサレム市(イスラエル政府)が進めています。ここに3000年前にダビデ王がいたとされ、記念のナショナルパークを作るというのです。一度は、住民や支援者の強い反対で破壊が中断されましたが、いま再加速。いっぺんに破壊すると目立って国際的な批判が大きくなるということなのか、虫食い状態に少しずつ接収、家屋を破壊して行っています。先週は7軒が壊され、2ヶ月前は8軒壊され、というように。
 東エルサレムでは、家屋にしろ何にしろ、新しい建築も増築もできません。建築には政府・自治体の許可がいるのですが、申請してもまず許可はおりない(1967年以降許可が出たのは3%のみ)。建築申請をするにも高額なお金がかかり、申請を却下されてもお金は返ってきません。やむなく申請なしに建築すると「違法建築」とされ、破壊されたり、罰金が課されたり。

 ヨルダン川西岸地区のヘブロンやラマッラーにショッピングモールなどができているのに対して、東エルサレムやイスラエル内のパレスチナの町村にはショッピングモールも作れません(許可が出ない)。大きな工場を作る場所も限定されています。

物価も税金も高いけれど行政サービスは不十分、入植者からの「嫌がらせ」もひどい。東エルサレムに住み続けるには大変なプレッシャーがかかっています。このため、東エルサレムを離れ、隔離壁を超えた西岸地区側に引っ越す人も増えています。しかし、いったん東エルサレムを離れると「居住権」が奪われ、東エルサレムに戻ることはできなくなります。なので家族でバラバラに暮らしている人もいます(誰かが東エルサレムに住み続ける)。

 

ジェニン難民キャンプ

 12月初めから1月半ばまで、パレスチナ自治政府(ヨルダン川西岸地区、ファタハ主導の政権)の警察・治安組織が、ジェニン難民キャンプに侵攻・駐留しました。パレスチナ自治政府がパレスチナ住民を攻撃したのです。住宅の水タンクを銃撃したり電線を切ったりとインフラを破壊。キャンプ入口を封鎖していたため、食糧も不足しました。避難できる人は避難して、残った住民は木片を燃やして温まっている、という状況。ここを拠点とする武装組織をたたく、というのが自治政府の言い分でしたが、死傷し被害を受けていたのは住民です。

 私はジェニンの難民キャンプには行かず、ジェニンの町を訪れました。一見町は普通の様子でしたが、「いつもより人も車も少ない、周辺の村から病院や買い物でジェニンの町に来た人も、用事が終わったらさっさと帰る」と聞きました。

 パレスチナ自治政府のこの攻撃に、誰もが怒っていました。自治政府はもともと不人気でしたが、2023年10月以降も何もできないことで評価を落とし、ジェニン難民キャンプへの侵攻で信頼は地に落ちた、と感じました。

*1998年に合意して以来パレスチナ自治政府とイスラエル軍は「セキュリティ・コーディネーション」(共同での治安維持・協力)を行なっています。

オススメ本・記事

サラ・ロイ著/岡 真理/小田切 拓/早尾 貴紀 編訳『なぜガザなのか―パレスチナの分断、孤立化、反開発』(2024年7月、青土社)

 専門書のように見えるかもしれませんが、基礎として知っておきたい内容です。何を意図して何が行われてきたのか、その結果何がもたらされてきたのか、問題の構造が示されています。

 

Dialogue for people 特集「パレスチナ—続く民族浄化」

 あちこちを訪ね人々の声を聞いて書かれた、安田菜津紀さんと佐藤慧さんによる貴重なレポートの数々です。マアン労働組合の代表アサフさんにインタヴューしたレポート「経済的に依存させ、支配する―パレスチナ・西岸の労働者たちは今」も掲載されています。

 

オススメトーク

『パレスチナのちいさないとなみ』の共著者で写真家の高橋美香さんが、約2ヶ月間のパレスチナ滞在から戻りました。ヨルダン川西岸地区ジェニン難民キャンプに滞在し、その後難民キャンプから追放された人々と生活を共にしてきました。各地で訪問報告会が行われるので高橋美香さんのXをチェックしてみてください。→高橋美香@mikairvmest

<追記>滞在報告の一部がブログにも掲載されました。ジェニン難民キャンプでのこと、心してお読みください。

編集後記

 緊迫した日々ですが、生産者さんとのやりとりは仕事の話が中心。イドナ村女性協同組合のスタッフから電話がかかってきて何か起きたかと思えば「ポシェットの紐の金具のことなんだけど、、、」と製品の相談だったり。石けん工場へ送った紙箱デザインについて、現地の印刷会社からの版下を確認したり。細々としたやりとりがあれこれあります。ときどき「こんなことをしている場合?」と奇妙な気持ちにもなりますが、「こんなことが大事なんだ!」と思っています。

 通信の中で書いた場所とは別の地区なのですが、東エルサレムで、自宅が接収されそうななか抵抗運動を続けるご家族のところを訪問しました。話をしているうちに、すぐ隣に座っている青年が私の息子と同い年、誕生日もかなり近いことがわかりました。「もうすぐ21歳。17歳のときにイスラエルに逮捕されて3年半軍事刑務所に入って出てきたところ」と。彼は武装闘争したわけでもなく、接収に反対していただけなのに。そういう人はパレスチナ中にいるわけですが、同じ頃に生まれたのに、、、と彼の状況に思わず胸を突かれました。

 ガザ地区がいったん「停戦」となりましたが、イスラエル軍がいつでも攻撃を再開できるという占領状況/構造は何一つ変わっていません。「ガザ地区の次はヨルダン川西岸地区」とばかりに、西岸地区へのイスラエル軍やイスラエル人入植者による攻撃はますます苛酷になっています。(西岸地区の)パレスチナ自治政府がジェニン難民キャンプを撤退した直後、かつガザ「停戦」発効直後の1月21日、イスラエル軍がジェニン難民キャンプに侵攻し、その後ジェニンの町や周囲の村にも侵攻、攻撃を広げました。イスラエル軍の「作戦」は現在も続き、ジェニン難民キャンプ、トゥルカレム難民キャンプ、ヌールシャムス難民キャンプから住民全員、約4万人が行くあてもなく追放され戻れない状況です。その一人と話していた時、彼女の娘さんも私の息子と同い年なことに気が付きました。

 同い年だからなんだというわけではないかもしれませんが、その東エルサレムと難民キャンプの二人の若者のことが、私の中で気になる人になりました。