パレスチナ・オリーブは、1998年からパレスチナ北部ガリラヤ地方(1949年からイスラエル領)のオリーブオイルを、2000年からヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けんと、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品をフェアトレードで輸入、全国で販売しています。
毎年生産者を訪問し、通信「ぜいとぅーん」やお話会で、生産者の状況や人々の暮らしを伝えています。
合同会社 パレスチナ・オリーブ
代表:皆川万葉
宮城県仙台市若林区連坊小路135 レインボウハウス1階
Tel.&Fax.022-796-0643
9:00~17:00営業、土・日、祝日定休
1995年、大学生の時にスタディ・ツアーでパレスチナを訪問し、パレスチナの暮らしを知りたい、かかわりたいと思うようになりました。1997年末に「ガリラヤのシンディアナ」がオリーブオイルのプロジェクトを始めたことを知り、品質の良いオリーブオイルに魅了されたと同時に、「平等に共存できる社会の実現を目指す」という考え方・立場に共感して、1998年からオリーブオイルの輸入・販売を始めました。
現在のイスラエル、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区を合わせた「パレスチナ地域」は、オリーブや小麦、オレンジなどが育つ豊かな土地で、歴史も古く、民族や宗教も多様な地域でした。青い海、青い空、緑のオリーブ林が美しいところです。
しかし、パレスチナ地域は、第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となり、第二次世界大戦の後、1948年にはイスラエルが建国を宣言、1967年の第三次中東戦争で、イスラエルによるヨルダン川西岸地区・ガザ地区の占領が始まりました。1993年には「オスロ合意(暫定自治合意)」が締結されましたが、その後も状況は悪化し続け、パレスチナの人々は追い詰められた状況に置かれています。
占領は軍事攻撃だけではありません。ユダヤ人入植地は増え続け、パレスチナの人々は住居や土地から追い出され、分離壁や検問所で人とモノの移動が制限されています。自由がないというだけでなく、経済的にも大打撃を受けているのです。
イスラエル建国前後から現在まで、農地の没収も続き、水の利用が制限され、パレスチナの農家は十分な利益をあげることができません。
しかし、そういう中でも、よりいいモノを作ろうと日々頑張っている生産者さんたちは元気です。売れるということは、商品の良さを評価されたということ、買った人とのつながりができるということ。特に女性たちにとって、家の外で自分で稼ぐということは、大きな自信になります。
長年の活動の中で、生産者さんたちや団体スタッフさんたちはビジネスパートナーというだけでなく、ともに社会を変えていく仲間なのだ、という気持ちも強くなりました。そして、商品をずっと使い続けてくださっている皆さんのおかげで、生産者団体の活動が続いています。パレスチナ・中東は遠いところの話と思われがちですが、モノを通じて身近に感じていただいているのも嬉しいことです。
2022年7月
パレスチナ・オリーブ代表 皆川万葉
高橋美香(文・写真)x皆川万葉(文)
『パレスチナのちいさないとなみ 働いている、生きている』
(かもがわ出版、2019年6月)
本体価格1,800円+税
仕事と尊厳の意味を考えさせられ、パレスチナに長年かかわっている写真家の高橋美香さんと本をつくりました。パレスチナの様々な仕事と、働く人一人ひとりのことを書きました。(農場の仕事、オリーブの収穫、床屋、漁師、屋台、路上販売、俳優、映画監督、出稼ぎ労働者、フェアトレード製品の生産者など) 「仕事」を切り口にパレスチナ地域のいまを描き出すユニークな本になりました。
*パレスチナ・オリーブからも買えます。
パレスチナとの出会い
私(皆川)は新潟県新潟市出身、大学進学で仙台に来ました。大学生だった1993年、パレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)に疑問を持ったことをきっかけに、パレスチナにかかわる勉強会や市民活動などに参加するようになりました。
1995年にNGOのスタディ・ツアーに参加してパレスチナを初めて訪問したことで、パレスチナに対する関心の持ち方が大きく変わりました。それまでは、本を読んだりニュースを見たりするなかで、政治的な場所としか捉えられていませんでした。しかし(いま思えば当然のことですが)、パレスチナにも、学校に行ったり買い物に行ってご飯作って洗濯をして、、というの日常の生活がありました。そして占領はそういう日々の暮らしに影響するものでした。私は、それまでパレスチナの人々の暮らしを具体的に全く想像できていなかったのです。
(写真:1995年、ガザ地区。皆川撮影)
生産者団体との出会い
1997年に、隔月誌「チャレンジ」の 記事を翻訳・掲載したミニコミ誌で、「ガリラヤのシンディアナ」が設立されたことを知りました。早速サンプルを取り寄せたところ、とても美味しいオリーブオイルでした。同時に、「平等に共存できる社会の実現を目指す」という考え方・立場に共感しました。
「パレスチナと仙台を結ぶ会」の市民活動の一環として、1998年にオリーブオイルの輸入・販売を始めました。2000年以降は「結ぶ会」とは分かれて、独立して活動しています。
パレスチナ留学
日本の大学院で中東の地域研究を専攻していたとき、1998-99年の7ヶ月間、パレスチナ自治区(ヨルダン川西岸地区)に留学、パレスチナの女子学生たちと一緒に住んで勉強しました。
そのかんに生産者団体「ガリラヤのシンディアナ」も初めて訪問しました。市民活動の延長でオリーブオイルの輸入を始めたのですが、すぐに中途半端ではできないことに気がつき、このフェアトレードを仕事としてやっていこうと思いました。
(写真:留学当時、ラマッラーの野菜市場にてお店の方たちと)
生産者団体スタッフの来日
2000年に大学院(修士)を卒業後、バイトで生活しながら、パレスチナ・オリーブの活動を本格的に始めました。
各地で手伝ってくれる仲間、ご購入者、イベントなどで紹介・販売してくれる人たちのおかげで、徐々に全国に販売が広がりました。
2002年には、「ガリラヤのシンディアナ」の女性スタッフ二人を日本に招いて、全国ツアーをしました。その記録は、『パレスチナ/イスラエルの女たちは語る』(柘植書房新社、2002年)にまとめました。
毎年の訪問
2000年以降、ほぼ毎年、パレスチナの生産者さんたちを訪問しています(コロナ禍のあいだを除く)。直近では2023年2月に訪問しました。
2000-2005年は、第2次インティファーダ(民衆蜂起)とイスラエル軍の侵攻が厳しい時期でした。死者数は推定でパレスチナ側約5,000人、イスラエル側約1,000人(イスラエル兵を含む)と言われています。
初めてナーブルスの石けん工場を訪問した2002年夏は、1週間家から一歩も出られないというような厳しい外出禁止令の最中でした。
石けん工場は、それまでの工場が手狭になりナーブルス郊外に大きめ工場を建設したところでしたが、新石けん工場のある地区が軍事封鎖地域になってしまいました。5年間新工場に行くことができず、その間は小さな倉庫を間借りしていました。厳しい軍事攻撃の中でも、より良い石けんを作ろうとしていた工場の皆さんの姿に感銘を受けました。
(写真:ラマッラーからナーブルスへ行く途中。主要道路が完全破壊・封鎖され、抜け道もあちこち破壊されていたので、人々は行けるところまで乗合タクシーで行き、歩き、次の乗合タクシーを拾って移動した。*外出禁止令の出ている日には移動できない)
*詳しくは通信『ぜいとぅーん』のバックナンバーをお読みください。
東日本大震災(後)と支援・ものづくり
宮城県仙台市は地震・津波・原発事故のトリプルで被災しました。ただし他地域の被害が甚大だったため、沿岸部ではない仙台の人たちは「私たちなんて被災者に入らない」という気持ちも強くありました。私は当時まだ小さかった息子はすぐに避難させ(原発事故避難)、私も2013年4月から山梨県甲府市に拠点を移し、2022年3月に仙台に戻りました。
震災当時は、お取扱店の皆様など全国の方からご支援をいただき、必要なところに届けることができました。本当にありがとうございました。パレスチナの生産者団体さんたちからも応援の声をいただきました。震災を経て、フェアトレードについても改めていろいろ考えさせられました。
東日本大震災・原発事故前、自分が「支援される側」にもなりうるということを考えたことがありませんでした。それに気付かされました。
必要な時に、必要な場所に、必要なもの・ことを届けることが、いかに難しいか、つくづく感じました。例えば、交通の便のいいところに支援が集中する。それは、東日本大震災の被災地で聞いたことであり、国際支援の場でも聞いたことでした。
そして、短期・長期の活動のどちらにおいても、支援される側・する側のコミュニケーションの難しさ。自分たちのニーズとは違っても、支援を受ける側からなかなか「違う」とは声を出しにくい。支援する側は「ニーズをはっきり言ってくれないとわからない」と言う。でも、そもそも、何が必要なのか、自分たちでさえわからない。
緊急の時期が過ぎれば、必要なことは仕事。いままでの仕事を失いそれらが復活するまで、まずたくさんの手仕事のグループができました。震災直後は「支援グッズ」というだけで売れるかもしれない。でも、やっぱり商品の良さで売れるものを作らなければダメだと思う。「手仕事」には何を求めている? 「手を動かすことで気持ちが落ち着く」「みんなで一緒に顔を合わせる居場所」「少しでもお金が入ってくること」、、どこに重点があるかはグループによって違ったけれど、仕事の大事さを改めて感じさせられました。
ともに生きる、誰もが尊重される社会を
パレスチナの人たちが「平和を望む」と言うとき、「公正な平和」「本当の平和」という言い方をすることがあります。たとえ空爆がなくても、毎日土地が奪われ、検問所と分離壁で人とモノの移動がコントロールされ、人々が不平等な状態に置かれていれば、それは平和ではありません。占領の継続です。
2022年に仙台に戻ってきてから、個人的に「優生手術被害者とともに歩むみやぎの会」に参加したりしています。「いのちを分けない社会へ」「いのちに優劣なんてない」「自分たち抜きに自分たちのことを決めるな」「あたりまえに生きる」「自分らしく生きる」 障がい者運動の中で出てきた言葉ですが、これはすべてについて言えるのだろうと思いました(固有の運動の特徴はあると思います)。
国籍、ルーツ、宗教、性別・性自認が何であっても、「障がい」(違い)があってもなくても、互いを認め合い、誰もが尊厳を持って平等に自由に生きられる社会を皆さんと共につくっていきたいと思い、活動しています。