9月からオリーブ石けんが新しくなりました。

オリーブオイル 石けん サラダ オリーブオイル工場 オリーブの林

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

『ぜいとぅーん』49号 訪問報告

『ぜいとぅーん』49号 2012年10月5日発行

パレスチナ・オリーブの早尾が、9月11日から18日まで、パレスチナ/イスラエルに行ってきました。

訪問報告

 昨年にひき続き、大学のオフキャンパス・プログラムとして、学生4人を連れてスタディ・ツアーを行いました。


ベツレヘム

 ヨルダン川西岸地区で訪れたのは、まずはフェルト製品をつくっているベツレヘムの知的障がい者の団体「マアン・リ・ルハヤート」。エルサレムでフェアトレード製品を扱っているお店「スンブラ」の山田しらべさんの案内で、作業所を訪れて製作風景を見ることができました。学生らも作業に参加しながら。

 パレスチナでは占領下にあるため、障がい者福祉にまで手が回る余裕がありません。偏見も手伝って、養護学校(小・中)を卒業した後はほとんどの障がい者が家の中に閉じ込められているそうです。そこでこの団体は、フランスやスペインの支援を得て、この事業に取り組みました。まずは義務教育を終えた若い知的障がい者の「居場所」を社会のなかにつくること、彼らが毎日通うなかで親御さんたちと定期的に連絡を取り合い親御さんのサポートをすること、品質の高い製品をつくることで世間の障がい者に対する偏見を取り除くこと。大きくこの三つが課題です。また、作業報酬も積み立てられ、家族の誕生日プレゼントを買いたいときなどにひき出せるのだそうです。

 学生らは、ベツレヘム近郊の羊の毛からフェルト生地を作ったり、袋などのかたちに成形したりする作業に参加し、またクリスマス飾りや小物入れなどの製品を購入し、占領下の福祉問題についての講義を受けて、その作業所を後にしました。

註:この団体については『ぜいとぅーん』40号の訪問記でもお知らせしています。


ヘブロン

 その足でベツレヘムからさらに南、ヘブロンに向かいました。ヘブロンは、ヨルダン川西岸地区南部で最大のパレスチナ人の町です。

 ヘブロンでは、たまたま旧市街で知り合った自称「現地ガイド」(英語が達者で外国人を見ると案内したがる地元の若いお兄ちゃん)が、ヘブロン旧市街を占領するユダヤ人入植地の核心部分まで連れていってくれました。ヘブロンはイブラーヒーム・モスク(アブラハム廟)に隣接する旧市街が、原理主義的ユダヤ教徒によって一部が乗っ取られ入植地化しているいびつな町です。数百人の入植者らが占拠した一帯はイスラエル兵の詰める軍事検問所によって地元パレスチナ人や外国人の出入りが禁じられ、大規模に増改築が進められています。

 その様子は私自身も以前から何度か訪れて見知ってはいましたが、今回はそのガイドのおかげで、いままで知らなかったかなりきわどい地域まで入り込むことができました。まさに乗っ取られた入植地の建物にピッタリ隣接する地元パレスチナ人の家屋、ほぼゴーストタウン化した一帯に数件残ってイスラエル兵に監視されながらボール蹴りで遊ぶパレスチナの子どもたち、入植者とイスラエル兵に追い出されてその周辺で「蚤の市」をせざるをえない人々。

 ヘブロンは「すさんでいる」という形容詞がしっくりきてしまう町です。


ナーブルス

 ナーブルスでは、隣接するバラータ難民キャンプに学生らとともに一泊しました。私が10年前から仲良くしているアブズール家。パレスチナに行くたびに必ず挨拶に行っていますが、今回は学生らと宿泊してきました。

 人ひとりしか通れない狭い迷路のような路地を歩き、アブズール家に辿りつきました。その家は、第二次インティファーダ下の2003年にイスラエル軍によって家屋破壊に遭っており、その後建て直しました。そこの二男がイスラエル軍基地の襲撃をして射殺されたため、その報復としての家屋破壊でした。

 学生らに知ってもらいたかったのは、その一家の誰も武装組織にも宗教組織にも関わってなどいないこと、みなただそのお兄さんを失ったことを悲しんでいること、そうしたなかでも元気に生活を営んでいること、でした。日本で語られがちな「自爆テロ」という言葉のなんと空疎で非現実的なことか。

 8人兄弟姉妹のその一家ですが、二女と三女、三男と四男が家にいて、学生らと同じぐらいの年頃なので、お互いカタコトの英語で夜遅くまで交流していました。末の子たちは、10年前に知り合ったときは、まだ小・中学生。それがいまでは大学生とか社会人ですから、ときが経つのは早いものです。

 しかし、やはり難民キャンプには「未来」はありません。食堂で働いたり、市場で働いたり、配管工になったり、自治政府関連の職員になったり。そうやって仕事が見つかればまだいいほう。でも、キャンプに暮らしたままで何か新しいことに挑戦するとか、事業を展開するとか、そういう未来が描けるわけではありません。そこの三男が、「カナダかどこかに移民したいんだ。もうここには居たくない」と、移民の相談を私にしてきました(難民キャンプまで来る外国人は少ないので、外国人に会ったら留学や海外就職のチャンスと思って相談して来るのはよくあることです)。


ヤーファとハイファ

 イスラエル側では、ヤーファとハイファに行きました。

 テルアヴィヴに隣接するアラブ・パレスチナ人の町ヤーファと、「共生の町」とされるハイファ。ヤーファはアブズール家の父方の出身地、ハイファは母方の出身地。つまり、バラータ難民キャンプにいて、アブズール家の人たちが近づくこともできない「故郷」に、私たち外国人はもうその翌日には足を運ぶことができるのです。学生らには、そのことの不条理も感じてほしいと思いました。

 しかもヤーファは、拡大するテルアヴィヴに呑み込まれ、再開発の波に晒されています。ユダヤ人にとっては田舎臭いアラブ人街だったのが、海岸線のリゾート地に化けつつあり、地代・家賃・税金の高騰で、元の住民が住めなくなり、代わって金持ちユダヤ人が流入してきているのです。

 逆にハイファでは、下町にある1948年(イスラエル建国の年)以来、廃墟となっている一帯を歩きました。元の住民は、第一次中東戦争のさいに戦火から避難したすきに、建国されたイスラエルによってその土地と家屋を国有化され、周辺の村に身を寄せ「域内難民」とならざるをえませんでした。多くの廃墟がユダヤ人の町として再開発されていくなかで、しかし「坂の町」ハイファは上へ上へと開発が進み、金持ち階層は下町を見向きもしなくなり、その残った廃墟は再開発が進まずいまでも無人のまま残っているのです。学生らに「イスラエルの建国=パレスチナの破壊」の歴史の話をしながら歩きました。


ガリラヤ地方

 ハイファからガリラヤ地方のラーミ村へ、私の友人ワッダーハ君の家を訪ねました。詩人マフムード・ダルウィーシュがイスラエルを去るまでいっしょに詩作をし雑誌を刊行し言論で抵抗運動を担った盟友サミーハ・アルカーシムの息子です。

 彼の家では、遠縁の叔父が来ていて、昨年のチュニジア革命から始まった「アラブの春(民主化運動)」をめぐって、まさに口角泡飛ばす議論を重ねていました。その叔父曰く、「アラブには民主主義も民族主義ももはやない。過激なイスラーム主義がすべて乗っ取ってしまった。しかもその原因は、殉教だの聖戦だのと攻撃的なイスラームそのものに内在していた」と。

 それに対して、ワッダーハ君は、「自分もまったく宗教的ではないけれど、それでもイスラームは自分たちの文化の一部だと感じる。問題は、敵を必要とするアメリカ合衆国だ。ほんの20年ぐらい前まではしきりに、共産主義が敵だと叫び、いまはイスラームが敵だと叫んでいる。その次は中国か? 過激なイスラーム主義者はごくわずかだ」、と。

 ムスリムのアラブ人どうしでも、こんなにも意見が割れるのかと、学生らもポカンとしていました。


マアンの取り組み

 次の日、ハイファのマアン(ガリラヤのシンディアナとの連携団体)の事務所に行き、いまのマアンの取り組みについて話を聞きました。もともと彼らは、イスラエル内のパレスチナ人と、とくに女性の就労に重点的に取り組んできましたが、近年はユダヤ人の若年層と外国人労働者(ロシア人やタイ人)の問題にまで活動範囲を広げているとのこと。世界的にアメリカ型の新自由主義政策がとられており、イスラエルも例外でなく、低賃金の外国人労働者が増える一方で、その労働市場からは占領地のパレスチナ人だけでなく、ユダヤ人もはじき出され、貧富の格差がものすごく大きくなってきているのです。

 そのため昨夏からユダヤ人の若者らが、どんどんと路上に出てデモや座り込みで政府に対し抗議活動を展開しています。マアンではこの動きが「アラブの春」にも触発を受けていると見ており、また「アラブの春」そのものに対しても好意的です。「ほんの数年前まで独裁体制を倒すことができるなんて夢想だにできなかった。それが実現したのは、貧困層が路上に繰り出したからであって、それ以前からいたイスラーム主義者たちのおかげではない。かりに民主化後の選挙でイスラーム勢力が政権をとったとしても、それが民意なのだから4年間(任期)任せればいい。ダメだったら次の選挙で代えるというのが民主主義なのだから」。

 学生たちはそれに応じて、脱原発の官邸前デモをひき合いに出し、まだ日本では若い世代の力が弱いことと、脱原発という一点に争点がとどまっていて新自由主義などの問題にまで議論が広がっていかないことなどを話していました。


ガリラヤのシンディアナ

 最後にコフル・マンダのあるシンディアナのビジター・センターに行きました。何度か訪れたことがありましたが、今回初めて見たのは、たくさんのイスラエルのユダヤ人のグループが、シンディアナのパレスチナ人スタッフに指導を受けながらカゴづくりのワークショップに参加している場面でした。ちょうどユダヤ暦の新年であったため、学校や会社が休みで、家族で参加というところもありました。

 シンディアナ紹介のDVDを視聴していたのは私たちの学生グループだけではありましたが、ユダヤ人のグループもカゴを編みながらチラチラと映像に目を走らせ耳を傾けているようでもありました。必ずしもフェアトレードやパレスチナ人との共生や占領問題に関心があるようには見えませんでしたが(つまり純粋にカゴ製品やオリーブ製品に関心がある)、製品やカゴのワークショップを通して、社会問題に関心を広げていくこともあるのだろうと思いました。

 ユダヤ暦の新年は公共交通機関がすべて止まるので不便もありましたが、かえって休みのために興味深い光景を見ることができました。

註:もともと、ガリラヤ地方のパレスチナ女性の仕事作りのために始めた、ナツメヤシやオリーブの枝を編むカゴ作りセミナー。数年前に、「カゴづくりを習いたいというユダヤ女性が二人いる。パレスチナ女性と一緒に習うのは良いことなのではないかと思うので、近く受け入れることにすると思う」と言っていました。そこから始まったようです。

 シンディアナのカゴはここで買えます。→カゴアミドリ


占領の完成

 旅行全体の感想としては、「占領の完成」。

 西岸地区のなかから、イスラエルの占領政策に対する抵抗の芽は見えません。物価や失業に関してパレスチナ自治政府に対する不満、アメリカのムハンマド諷刺に対する抗議、それぐらいしかありません。生活を分断し囲い込んでしまった分離壁の存在は、どんどん当然の風景と化してしまっています。

 それに対してイスラエル側でも、市民運動はもっぱら貧困問題ばかり。貧富の格差、若者の失業が主な関心で、そして「外」に目を向けるとしたら、イランの核開発に対する先制攻撃の是非ばかり。パレスチナの占領はもはや意識にのぼらないかのようです。占領は厳然としてあり、そして自分たちは占領者であるにもかかわらず。

 これはもしかすると、占領の完成形態、なのではないだろうかという気がしてくるのです。

 もちろんシンディアナのスタッフや、大学時代の友人らと話をすると、彼らの批判的感性にいつも学ばされるのですが、しかしその彼らもどんどん少数派になってきているように思います。

(早尾貴紀)

 

目次に戻る

投稿日:2013年02月18日(月)
この記事のURL:http://paleoli.org/?eid=91