4月23日甲府で簡単パレスチナお料理教室

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

『ぜいとぅーん』46号 訪問報告

『ぜいとぅーん』46号 2011年10月11日発行

 パレスチナ・オリーブの早尾が、9月11日〜18日にかけて、パレスチナ/イスラエルに行ってきました。

訪問報告

 今回は、大学教員として学生4人を連れての研修旅行で、私が訪問先を選び企画しました。

エルサレム

 最初の拠点はエルサレム。エルサレム旧市街、隔離壁に囲まれた東エルサレム、ユダヤ人の新市街である西エルサレム…エルサレムの複数の顔を見ることができるだけでなく、そこからヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区/被占領地)の各地に行くことができます。

 さて、エルサレムの様子は、訪問直前にニュースになっていたイスラエル側のユダヤ人たちによる生活コスト上昇に対する40万人デモも収束しており、またパレスチナ側で話題になっていた国連加盟申請問題もどこ吹く風。いたって「平穏」な雰囲気でした。もちろんこの平穏さは、隔離壁が完成しつつあり、占領の現状が完全に固定化されてしまって、人びとが「政治問題」に向き合うことにウンザリしてしまっていることの表れだと思いました。

 学生たちを、エルサレム郊外にあるアルクッズ大学(「アルクッズ」はアラビア語でエルサレムを指す)に案内。そこはかつては旧市街からバスで出発して、たかだか10分か15分で着くはずの場所。ところがいまは、壁によって完全に隔離されてしまい、入植者道路を延々と遠回りしてしか辿り着くことができません。以前通っていた東エルサレムのパレスチナ人たちはそこには行けないのです。

 アポなしで突然行ったにもかかわらず、大学の広報部が案内の学生をつけてくれて、キャンパス紹介。そしてカフェで飲み物をごちそうになりながら、日本からの学生4人は同世代のパレスチナ人学生らと、たどたどしい英語で交流していました。

ヨルダン川西岸地区

 西岸地区で今回訪れたのは、南部がベツレヘムとヘブロン、北部がラマッラーとナーブルス。ベツレヘムでは、国境管理並みになった大型検問所を学生らに歩いて通過してもらい、検問所のなかの鉄格子や生体認証の機械を見せ、しかもこの検問所や隔離壁の両側ともに西岸地区の内部であること、壁の両側に分断された住宅地とオリーブ林がともに西岸の土地であることを説明しました。

 ヘブロンでは、まず旧市街にあるイブラーヒーム・モスク(アブラハム廟)とその周辺を乗っ取っているユダヤ人入植地。今回は、モスクとシナゴーグに二分割されているその両側に入ることができました。つまり、一人の預言者イブラーヒーム=アブラハム(同じ名前をアラビア語とヘブライ語で呼んだときの違いです)のお墓が共有されつつも分断されているという、その奇妙な構造を、学生らに見てもらいたかったのです。そして、いかに、「ユダヤ人」「アラブ人」という民族定義やアイデンティティが歴史によって生成変化するものなのかということを考えてもらいたかった、ということがあります。

 そしてヘブロン旧市街の内部。ここは学生たちが、今回の旅行のなかで、「いちばんキツかった」と言った場所です。エルサレムの旧市街と同じ商店街と言えばそうなのですが、しかし、雰囲気が荒んでいる。それはまずは、建物の上階を乗っ取っているユダヤ人入植者らがいて、上から石や汚物を階下のパレスチナ人に落としてくるので、それを遮るためのフェンスがあり、またあちこちにイスラエル兵の詰める監視所があり、そのため地元の人びとに生気がなくギスギスしている感じをどうしても受けてしまうのです。

 西岸地区後半は、北部方面、ラマッラーを経由してナーブルスでした。ラマッラーは、パレスチナ自治政府が置かれたことで商業的な中心になってしまったちょっと人工的な匂いがどんどん強くなってきている街。1993年のオスロ和平合意以降、国際援助のお金がラマッラーを中心に回るために、成金的な感じでいびつな発展をしているように思います。というのも、周囲の村にはどんどんと土地を壁や入植地に奪われ、生活が破綻していっている人たちがいて、また上に書いたようにヘブロンはすごく荒廃している感じがするというのに、ラマッラーだけは金回りよく、高層建築まで立ち並びつつあるのです。ここにも、「占領経済」の歪んだ構図が反映されていると思います。

 そしてその対極とも言えるのが、パレスチナ人の難民キャンプです。ナーブルスにあるバラータ難民キャンプにある、長く私がつきあっている家族のところに、学生らをいっしょに連れて挨拶に行きました。ここは、西岸地区でも最大規模の難民キャンプで、イスラエル軍に対する抵抗運動も強かった第二次インティファーダの一時期には、イスラエル軍による襲撃や家屋破壊も頻繁におこなわれていた場所です。そして私の友人一家の家も、家族の一人がイスラエル軍の基地への攻撃を企てたということで、2004年に一度家屋破壊に遭っています。

 ここの父親のルーツはヤーファ(テルアヴィヴの隣のアラブ人の街)、母親のルーツはハイファ。明日から学生らをハイファに連れていくんだ、と私が言うと、母親は「娘もいっしょにハイファに連れていってくれ!」と、もちろんムリを承知のブラックジョークで応えました。学生らにその真意が伝わるのはもっと後、実際ハイファに行ってからのこと。

 2002年に最初に知り合ったとき、この一家の末の弟は9歳でしたが、あれから9年が過ぎ、彼は18歳で大学生になったところ。小さくカワイイその子を、「カバンに入れ日本に連れていっていいぞ(笑)」と親父さんから言われていましたが、その子はもう身長で私を追い越してしまっています。

 子どもの成長を見て時間の経過を感じましたが、しかし難民キャンプそのものは変わることなく、そして占領も固定化されるばかりで、その対比が印象的でした。

ハイファとコフル・マンダ村

 ハイファでは、10年以上前に初めて私が行った折、「ガリラヤのシンディアナ」のハダスさんに案内してもらったことのある、ワーディ・サリーブと呼ばれる廃墟の一区画に行きました。1948年にユダヤ軍が攻め入ったときに、元々のパレスチナ人の住民たちは周囲の村やレバノンに避難。そのあいだにイスラエル国家が建国され、土地と建物は国有財産として没収され、戦火が収まった後で戻ってきても元の住民らは自分の家には入れず難民となった、そういう場所です。

 その一区画は、石やコンクリートの部分だけはそのまま残っており(ガラス窓や木のドアなどはなくなっても)、無人の廃墟としてハイファの下町にひっそりと広がっているのです。学生らを案内しながら、1948年の歴史、つまりこの廃墟の元の住民らが難民になったのだ、というような概略を説明しました。

 その後、マアンが去年新しく開いたハイファの事務所と、そこに隣接するコミュニティ・ガーデンを訪れました。ちょうどガーデンの整備作業をしていると連絡を受け、ワーディ・サリーブからそのまま徒歩で直行。地元の子どもたちがプランターにペンキで絵を描き、大人たちは畑を拡張するのに雑草抜きをしていました。学生らにはその雑草抜きに参加してもらい、その後、マアンの活動についてレクチャーを受けました(マアンはイスラエル内や東エルサレムのパレスチナ労働者を支援。ガリラヤのシンディアナとの協力団体。コミュニティ・ガーデンについては、『ぜいとぅーん』44号を参照)

 旅程の最後は、コフル・マンダにあるシンディアナのビジターセンター。シンディアナの活動をPRする15分ぐらいのビデオ上映。カゴづくりを中心とした女性の仕事づくりについてレクチャー。そして野菜中心の地元アラブ料理を用意していただいて(これも彼女らの仕事・収入になる)、食べながら談話。最後に学生らが、カゴ製品、石けん、オイル、ハチミツなど、シンディアナ製品をおみやげに買い物して、研修旅行は終了したのでした。

 オリーブの樹々は、緑色のオリーブの実をたくさんつけていました。その一部が、紫から黒色に変わり始めていました。西岸地区は10月末から、北にあるガリラヤ地方は2週間くらい遅れて収穫が始まります。


【補足】

パレスチナ国連加盟申請問題

 パレスチナ自治政府のアッバス大統領が国連に独立国家として加盟することを申請している問題について、現地でどういう雰囲気なのかは、行く前から気にはなっていました。そもそもこの問題は、1993年のオスロ和平合意からの大原則になっているパレスチナ国家独立による二国家間での和平という枠組みが、イスラエルの軍事占領政策の継続・強化によってないがしろにされてきたことに起因します。イスラエルはこれまで一切西岸地区への入植政策を停止したことはなく、この加盟申請で交渉が続いているあいだも、独立を断念させようとばかりに、1000棟、2000棟といった規模で、入植地拡張計画を矢継ぎ早に発表してきました。

 こうした占領政策の継続のために、パレスチナの人びとはそれまでのファタハ主導の自治政府に見切りをつけ、2006年にハマス政権を選択したのでしたが、イスラエルやアメリカはこれをボイコット。それによってファタハ側の自治政府とハマス側の自治政府とが分裂してしまいました。アッバス大統領は、ようやく今年になってハマスとの和解と連立構想を打ち立てましたが進展はなく、またイスラエルは上記のように入植活動を継続しファタハとの交渉を拒否。結局アッバス政権は、国連にアピールする以外の手だてがないところに追い込まれたのでした。

 したがって、独立か加盟の機が熟したということではまったくなく、かなり悲壮で展望のない加盟申請だということになります。シンディアナのハダスさんはこの問題について、「何も生み出しはしない。10年後も状況は大きくは変わらない」と断言。また、私の友人のパレスチナ人も、「土地なしに国家を宣言してもいいけど、ただの名目に終わって、実質はともなわない」と、冷徹に見ていました。

 ファタハの動員で一定規模の加盟支持のデモや集会はあったようですが、広がりは限定的で、入植政策をはじめとする占領が終わらないかぎりはどうにもならない、という諦めの雰囲気が色濃く感じられました。

 

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投稿日:2012年05月05日(土)
この記事のURL:http://www.paleoli.org/?eid=80