9月からオリーブ石けんが新しくなります。

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

『ぜいとぅーん』45号 地震報告

『ぜいとぅーん』45号 2011年6月3日発行

 それぞれの皆さんにいろいろな状況があるので、書いていることは私の周囲の話です。

地震当日

 立っていられない強さの長い揺れ。本棚の本やファイルはほとんど飛び出しましたが、本棚も商品の段ボールも倒れはせず、スタッフは無事。在庫が少ない時期でありあまり積み重ねていなかったことが幸いしてか、商品にも被害はありませんでした。電気等は全て止まりましたが、ラジオを備えておりすぐにニュースは聞けました。同じビルの隣の事務所は、ロッカーから本棚から全て倒れていました。あちこちの建物で亀裂が入り外壁がはがれ落ち、道路もひびが入ったり隆起したりしていました。

 息子が通う小学校はパレスチナ・オリーブの目の前ですぐに無事が確認できたため(学校のサーバーが1ヶ月以上ダウンし、緊急メール連絡システムは役に立ちませんでした)、車でスタッフ2人を自宅に送りました。強い余震が続く中、でこぼこの道、大渋滞の上に雪も降っていました。地震についてもっと知りたいのに、なぜラジオが津波の危険ばかりを繰り返し言うのか、わかっていませんでした。今思えば、津波の来ている最中に津波到達地点から数kmの幹線道路を走っていました。渋滞で帰りも遅くなり、停電で真っ暗、信号もつかない中で運転することを怖く感じていました。

 スタッフの自宅含め、仙台の住宅では、瓦が落ちたりブロック塀が崩れたり壁にひびが入ったり。家の中はあらゆるものが散乱し、家電や食器が壊れました。電気・水道・ガスが止まり、また強い余震が1時間に何回もあったので、スタッフを含め多くの方が避難所に行きました。私の近所はマンションも多いためか、小学校には1,200人、中学校には4,000人が電気も何もない中で過ごしました。

コッペさんなど

 オリーブオートミールクッキーなどをつくっている「パンとクッキーの店コッペ」は、電気が復旧後、通えるスタッフですぐに製造を始めました。「近所の方が買いにくるので、小麦がある限りつくります」。さすがに事前に入っていた大口の注文はキャンセルしてもらい、その後は「卵と生イーストが入らない、、、」という時期もあったそうですが。

 パレスチナ・オリーブ商品のお取扱店では、オリーブオイルを含め、ガラス瓶に入った商品や、食器や美術品など多くの商品が割れてしまいました。

 パレスチナ・オリーブの名刺用紙(タマネギの皮染めの和紙)を作ってくださった「まどか荒浜」は津波で被災しました。他の施設に移動して作業を再開しているそうです。

 地震直後、店にある物を売り切ってほとんどの商店や飲食店は閉店していましたが、オリーブ商品のお取扱店の中でも被災しながら、手に入るものをやりくりして翌日から営業していたカフェや八百屋さんもありました。

 常連さんたちが食材を持ち寄りご飯を食べ、寝泊まりするというミニ避難所状態になっていたブックカフェもありました。

 ガスが出なくても、電気ポットでお湯を沸かしたり、炭火でお餅を焼いたり。調達できる物で何かを作り、みんなで話を持ち寄り、映画を持ち寄り、歌を持ち寄り、、、そんなふうに「場」をつくったシネマカフェもありました。宮城県内の沿岸地域から仙台の親族を頼ったりして移住してきた人たちの物資集め、受け渡しの役割も果たしました。

ライフライン

 表紙に書いた通り、電気・水道・ガス、交通機関は、徐々に復旧しました。最初は道路も電車も止まり、陸の孤島。数週間はある物・手に入る物を食べて過ごしました。避難所にも食料はほとんどなく、近所の人々も私も、家から食材や灯油を持っていきました。

 地震直後、公衆電話から遠方の固定電話には通じたので、沖縄と東京の知人に電話してインターネットなどで無事を伝えてもらうことができました。

 全てが一人一人に特別の経験である反面、共通点も感じます。

 私は、電気・ガスが止まっているとき、ヨルダン渓谷地域やイスラエル内のアラブ・パレスチナ非公認村の生活を思い起こしていました。給水車から自宅に水を運びながら、バングラデシュの女の子たちを思い出したという知人もいました。そして、お店の開店の何時間も前に並ぶ数百mの列、、、これも世界にはある風景なのでしょう。

4月7日

 夜中に震度6の最大余震。地震以来、気を張って頑張ってきて、ライフラインも徐々に復旧して、ちょっと落ち着き、復興に向けて長い道のりに入り始めたと思ったときの大きな揺れ。ライフラインも再び止まって、私もみんなもとってもがっかりしました。再び食器も割れ本も落ち、全部やり直し。本棚に戻さず、段ボールにしまったという知人もいます。

 宮城県の女川原発は1時間半にわたって電源が喪失していたことが、後日わかりました。

2ヶ月半

 日々必死にすごすうちに、2ヶ月半はあっという間に過ぎていきました。働いて、ご飯つくって、洗濯して、、、そんな日常が戻ってきているようで、しかし、心の中にみんなが喪失感を抱えたままでいます。

 圧倒的な沿岸地域の被害を前に、当初、沿岸地域以外の仙台の人たちは「私たちは被災者ではない」と言ってきました。しかし、いまになって「マンションが半壊認定になって罹災証明が出るんだって。私、被災者だったんだ、、。」と言った友人がいます。マンションにあちこち大きくひびが入っていて、余震がひどいときには、怖くて住めない〜と言いながら、みんなのために働いていた人です。また、チャリティのために不要品のバザーをした知人が「今回、たくさんあった食器や石けん、タオル等どんどん売れてしまい、びっくりしました。震災で壊れてしまったからと、湯飲みやマグカップをたくさん買って行ったデイサービスのスタッフ、被災した親戚に送りたいと石けんやタオルを買った方々、、、やっぱりここは被災地なのですね。」と書いていました。

 ある日、小2の息子が「同じクラスの〜ちゃん、お祖母さんが地震(津波)で死んじゃったんだよ。授業中に泣いていた」と言いました。沿岸地域の子どもたちが授業中に突然泣き出したりすることがある、というのはニュースでは知っていましたが、ここでも身近なことなのだと改めて思いました。

 沿岸地域では元の風景が一変してしまったのに対し、仙台の街中は、一見は何事もないようで、よく見ると普通のようで普通でないのです。

 私の周辺でさえ。近所の市民センターはまだ避難所で駐車場にシャワー用のテントがある状態。給食センターが復旧せず毎日お弁当を作らないといけませんが、近所のスーパーは閉店しました。大好きなおにぎり屋さん(おかずもおいしい)は自宅が壊れたそうでまだ再開していません。不動産屋さんに掲示してある物件も激減。駅前の3階建てのドラッグストアは地震以来閉まっています。ずっと立ち入り禁止になっていた駅前の商業ビルも、やっと修復見通しが立って全てのテナントがいったん退去だそうです。老舗のホテルも全館営業は来月。テレビCMでは、(震災前に決まっていたけれども会場が使えないために)中止のコンサートの払い戻しについてのお知らせがたくさん、、、。震災による休業や、廃業、支店の整理などによる震災関連解雇等の話は身近でも多く聞きます。

 仙台の人も、地震直後何をしていたか、会ったり電話したり、まず話をする時期がありました。まだ、続いています。そして、沿岸の友人・知人から話を聞くことも続いています。自宅が流されたり燃えたりするのを目にし、津波に飲み込まれる人々を見てしまった人たちもいます。遺体安置所を毎日回った友人・知人たちもいます。想像もできないことです。まだ、話せない人も多いでしょう。

 そして、原発事故の影響もあって、3月11日以前の日常は二度と戻らないことをますます感じています。

福島原発事故の影響

 仙台の大気中の放射線量は通常の数倍程度で下げ止まっています。全国で一覧になって発表されている仙台の値は、宮城県庁の屋上(80m)の数字です。

 3月12日夕方、乾電池を入れたラジオから福島原発の最初の爆発のニュースを聞いたときに「チェルノブイリ原発から100km圏内なんて十分汚染地域だ」と思いました(仙台は福島原発から95km)。仙台は陸の孤島になっていましたが、13日夜、山形空港が動いていて仙台〜山形の道路も通れるらしいと東京の知人から電話で聞いて(仙台からは発信できなくても、遠方からの電話が受信できるようになった)、辛かったけれど14日朝に家族で山形空港に向かい、7歳の息子と夫を関西へ避難させました。私は、山形に食料や物資があることに驚き、近所の避難所(小学校)向けの物資を買い込んで仙台に戻りました。

 自宅はケーブル回線の復旧が遅れたため、テレビも電話もインターネットもしばらく通じず、どんな情報から何を考えたのか、このあたりの記憶がありません。仙台では、安否の確認や生活物資の確保が大変で、放射能の心配どころではない人がほとんどという状況でした。4月からは息子はホストファミリーと小学校のご厚意で、5月の連休まで里子になっていました。いったん仙台に戻しましたが、今後についてはとても迷っています。

 宮城県はとにかく計測に消極的で、未だに一部の市町村で大気の放射線量を1ヶ所計るだけ。水道水は週1回、野菜は2週間に1回計るだけ。福島県と宮城県の県境には壁でもあって放射性物質が入ってきていないかのような対応です。しかし実際には、例えば、宮城県南部の丸森町は福島県伊達市や相馬市に接しており、計画避難地域になっている飯舘村とも目と鼻の先なのです。宮城県はそれどころではないのは重々承知なのですが、まず行政機関にもっときちんとした計測・対応を求める一方、自分たちで地表や放射性物質がたまりやすいと言われる場所などを計測していくしかないという状況です。自宅敷地内でのホットスポットは倉庫の雨樋の下で1.5マイクロシーベルトありました。自宅周囲の放射線量は0.13前後です。

 5月半ばを過ぎて、原発事故に対する仙台の雰囲気が少し変わってきた気がします。子どもを持つ保護者が学校や教育委員会に直接問い合わせたりしています。また「5年後、10年後の子どもが健やかに育つ会〜仙台支部〜」などができて、情報交換をしたり、仙台市教育委員会に要請書を出したりということが始まっています。仙台では学校ごとの測定も行われていませんので、まず、安心して暮らせるよう情報公開・共有を求めています。

 チェルノブイリ周辺に住んでいる人々のように、長期間にわたって放射能で汚染された水・空気・食物とともに生活することになろうとは、当初、想像できていませんでした。

 低線量被曝による健康被害リスクはあくまで確率の問題です。子どもがみんな病気になるわけではありません。おそらく、ガンの確率が少し上がったり、ぶらぶら病のような病気の人が少し出てきたりする「だけ」。

 仙台に残るからには、ここでみんなで顔を合わせ「地震・津波・原発事故」のトリプル災害の中で暮らして行く方法を探していかなければなりません。仙台でさえ、です。これまでの当たり前の生活が終わり、放射能とともに生きていく生活が始まったことにぼう然とします。

 福島県の人たちとのかかわりについては、早尾の最近のブログをご参照下さい。
 → 緊急・原発震災関連

【オススメ本】

『原発と地震-柏崎刈羽「震度7」の警告』
新潟日報社特別取材班、2009年、講談社

 2007年7月、中越沖地震によって、東京電力・柏崎刈羽原発の原子炉が全て緊急停止しました。

「この原発の運転再開問題を電力消費地の人も、全国の原発立地地域の人たちも当事者として一緒に考えてほしい」「地震国・日本で原発とともに生きるということは何を意味するのか」

 これを受け止められなかったことが、いまにつながったのだろうと、いま読んでむなしく思います。揺らぐ安全神話、封印された活断層、原子力産業の実相。遅いけれど、勉強になります。

【ヨルダンへの原発輸出?】

 福島の事故前、中東各国で原発計画が活発となり、日本企業は積極的に売り込んでいました。3月末時点でも、ヨルダンは原発計画の堅持を表明しています。現在、建設・運営起業として仏アレバ社=三菱重工業連合が有力候補になっています。

 昨年9月、日本ヨルダン原子力協定が締結されました。この協定は、事故後の3月31日、参院本会議で承認されました。現在、衆院で審議されています。

 

 地震報告の部分は、皆川のブログを大幅に加筆修正したものです。
 → ロバさんのように

 

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投稿日:2011年09月15日(木)
この記事のURL:http://www.paleoli.org/?eid=77