新シーズンのオリーブオイルとザアタルが入荷しました!

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

『ぜいとぅーん』39号 マジュタバさん来日

パレスチナ・オリーブ通信『ぜいとぅーん』39号
2010年1月9日発行

「イラク・ヨルダン・パレスチナ展」

2009年11月17日〜20日にジェトロ(日本貿易振興機構)主催で「イラク・ヨルダン・パレスチナ展」が東京で開かれました。パレスチナとヨルダンのメーカーが来日して展示会/商談会が行なわれ、3ヶ国それぞれについてセミナーが行なわれました。パレスチナからは10企業/生産者団体が参加しました(ガザ地区からの参加はなし)。参加企業はパル・トレード(パレスチナにおけるジェトロのような公機関)とジェトロで選考したそうです。そこにナーブルスの石けん工場も選ばれ、マジュタバ・ティベーレさんの初来日となりました。パレスチナ・オリーブの皆川は、マジュタバさんのお手伝いで展示会に部分参加したほか、「パレスチナ貿易投資セミナー」に参加しました。

展示会やセミナー自体は、ビジネス目的というより、大変に政治的で生臭い印象でした(あくまで印象です)。海外に売り先を求めるしかないパレスチナのメーカーは期待を持って来日したようでしたが、全体的に、一般客は多かったものの、商社や卸企業は少なかったようで具体的に商談が進んでいる様子はあまり見られませんでした。日本では需要が低いようで、大理石など天然石を扱う4社はとくに暇そうに見えました。「ビジネスの商談を進めるのが目的ならば、事前のマッチングが必要だった」「いまのパレスチナの状況(とくに輸送に問題がある中で)で純粋にビジネス目的の企業が参入するとは思えない」などの声も聞きました。

パレスチナからは国民経済庁長官のアブー・リブデさんやパル・トレード代表のハムダンさんらも来日しました。政治的な思惑は分かりませんが大臣が来日する程の展示会だったのか疑問でした。私たちが問題点を指摘してきた、JICAの「平和と繁栄の回廊構想」についてもセミナー等で説明がありました。

ところで、私が知っているマジュタバさんは石けん工場の職人さんで、もちろん、普段は作業着姿。今回、展示会で初めてマジュタバさんのスーツ姿を見ました。

今回、私たちの招聘ではなく、また日程に余裕もなかったことから、東京と仙台で内輪の小さな交流会のみ持ちました(マジュタバさんは在日パレスチナ領事部のパーティーを欠席して参加してくれました!)。皆さんにご紹介できなくて残念でしたが、以下、交流会などでの話を再構成しました。

代々の石けん作り

ヨルダン川西岸地区北部の都市ナーブルス(パレスチナ自治区)は、古くからオリーブ石けん製造で有名です。マジュタバさんの家系は、代々、オリーブ石けん作りを行なってきました。マジュタバさんは「オリーブ石けんに天然ハーブを加えるなど発展させたのは自分だけれど、基本的な石けん作りでは、まだまだ父に学ぶべきことが多い」と言っていました。お父さんは75歳ぐらいですが、いまも毎日のように工場に来ています。

オリーブ石けんは、昔は二番搾りのオリーブオイルを使って作られていました。昔の技術では食用に1回搾っただけでは搾り残しがあったのです。いまは、地元では一般的に、海外から輸入した工業用の品質の低いオリーブオイルで石けんが作られ、着色料や香料が加えられています。

シンディアナとの出会い

1996年頃に、いまの「ガリラヤのシンディアナ」のスタッフがナーブルスを訪問、高品質のオリーブ石けんを作ってくれるところを探していました。いくつかの石鹸工場を訪問したけれど話がまとまらず、人のつてでマジュタバさんの工場に出会ったそうです。それまで、マジュタバさんは地元パレスチナ市場向けに「普通の」オリーブ石けんを作っていました。

シンディアナとの出会いの後、マジュタバさんは、一番搾りのヴァージンオリーブオイルを使った石けんを作り始めます。技術的に大変難しく、周りからは「無茶だ」と言われたそうですが、成功しました。

1998年、初めてヴァージンオリーブオイルで作った石けんの注文が、「ガリラヤのシンディアナ」から来ました。パレスチナ・オリーブは、シンディアナを通じて2000年からこの石けんを輸入販売しています。

発展と困難

2000年秋、ナーブルス近郊にもっと大きな工場を完成させましたが、直後に第二次インティファーダとそれに対するイスラエルの弾圧・封鎖が始まり、工場のある地域は軍事封鎖地域になってしまいました。それから封鎖が終わるまで5年間、仮住まいの小さな工場で石けんを作らざるを得ませんでした。

2002年、2003年には、毎日のようにイスラエル軍の侵攻があり、外出禁止令も続いていたため、工場はほとんど操業できませんでした。そんなとき、マジュタバさんは機械のメンテナンスをしたり、石けん作りへの新しい方法の導入を考えたりしていました。1ヶ月に数日しか操業できない、というようなこともあり、その頃、職人さんたちへの支払いも、月給だったのを、週給、日給にせざるを得ませんでした。職人さんたちは他に仕事をかけもちしたり(仕事があれば、ですが)、特別な技術を持つ職人さんはいくつかの石けん工場を掛け持ちしたりしていました。

現在、7人の職人さんと、事務の妹さんが働いています。小さな町工場、といった雰囲気です。長く働いている職人さんは10年以上。これまでも書いてきましたが、体の不自由な人もいれば、以前は石けん工場を営んでいたけれどたたんでこちらで働くことになった人もいます。妹さんについては「本当に(仕事の)重荷を外してくれた」と言っていました。交流会で「これから注文が増えたら、働く人を増やす予定がありますか?」の質問には「もちろん」と答えながら「今の人数でももっと作る余力がある」「毎日はまだ操業できていない(それほどには注文がない)」と説明してくれました。

18種類のオリーブ石けん

2000年頃から、何かユニークな石けんを作りたいと考えるようになり、まず、2004年にハチミツ、ミルク、死海の泥、レモンをそれぞれオリーブ石けんに加えた石けんを開発しました。

それから2007年まで、オリーブ石けんに加えられる天然素材をあれこれ調べて開発しました。化学の専門家や皮膚科のお医者さんともよく相談したそうです。

そして、2008年にはミントやサフランなどを加えた18種類のオリーブ石けんを完成させ、工場を拡張し、ロゴを作ってリーフレットも作りました。「何もかも整えたけれど、注文がない!」と言っていたのが2009年の始めです。

一方、2007年に、イギリス保健省がイギリスで販売されている石けんをランダムにテストしたときに、マジュタバさんの石けんもたまたま検査対象になりました。そこで、最高品質であるというテスト結果が出ました。そのため、2008年にはイギリスなど欧米の援助機関の人たちが石けん工場を訪問することが多かったそうです。あるイギリスの人は、作業着姿で働くマジュタバさんを工場主だとは思わず、(高齢なので座って指示を出していたりする)マジュタバさんのお父さんに英語で話しかけたそうです。そして、工場を見学すると「機械はどこ??」。石けん工場には、オートメーションの大きな機械がある訳ではなく、製造段階ごとに、小さな機械や道具を使って作っています。「こんな設備であの石けんを作っているの??」と驚かれたそうです。ただし、2008年の訪問ラッシュは直接には注文に結びつかなかったとのことでした。

工場の設備については、交流会でも質問が出ましたが「石けん作りが大好きだから、いろいろ調べて、自分で工夫した。マヨはよく知っているけれど」と答えていました。実際、軍事侵攻の真っ最中にも、手に入るもので工夫していろいろ作っていたのを見ています。

(現在、パレスチナ・オリーブでは、天然ハーブを加えたオリーブ石けんは販売していません。石けん工場やシンディアナと相談中です)

海外へのマーケティング

この2年間で、展示会などに参加するため14ヶ国に行ったと聞き、驚きました。まず検問所を通る許可証が出やすくなったこと、ビザなども取りやすくなったことがあるようです。2009年は、海外からの注文が増え始めました。マジュタバさんは「一生懸命働いた結果で、これは成功の始まり」と言っていました。ただ、状況次第で変わってしまうのがパレスチナの現状です。4年程前には、フランスから大量注文があったけれど、検問所の通過が厳しく、出荷できずに半年間石けんが工場に山積みされていたことがありました。

そして、裏を返せば、他のパレスチナの生産者団体、会社などと同様、パレスチナ域内での販売が見込めないため海外に市場を求めざるを得ない、ということです。マジュタバさんの石けん工場も、1998年以前は地元パレスチナ市場でのみ販売していました。以前は、ガザ地区やヨルダン川西岸地区南部の町ヘブロンがお得意先でした。いまは、イスラエルによってガザ地区が封鎖されているため、ガザには石けんを販売することができません。そして、これまでも書いてきたように、パレスチナ市場には、海外からの安い石けんが出回っています。

石けん愛

東京の交流会では、後半は、話がノってきてアラブ人トーク炸裂!!

「大切なことは、仕事を愛していること! (仕事が好きじゃなかったら、その仕事はするな!) だから一生懸命働けるし、やりたいことを実現して行ける。一生懸命働こう!」と、ビジネスセミナーのようになってきました。「私は一生懸命に働き、よい石けんを作って有名になった。中東で一番大きい工場だ」 決してそんなことはありません、、、ちょっと(だいぶ?!)大げさに言うのはパレスチナ人によくあることです。石けんへの情熱と誇りだけはよく伝わりました。

指の切断

来日の数ヶ月前、マジュタバさんは石けんを圧縮、刻印する機械(足踏みミシンのように足で踏んで動かす)で、右手の人差し指を切ってしまいました。皆さんの前では「私は一生懸命働いて、夢を実現してきた。指はその代償だ(なくなった指は一生懸命働いた証)」と説明していました。

しかし、私には、指を切断してすごくショックだったこと、しばらくの間、精神的、肉体的に辛かったことを話してくれました。指の手術も3回おこない、結局、指の付け根からの切断になったそうです。利き手ですから、実際に不自由も大きい。そして、ドバイで働いていた弟さん家族をナーブルスに呼び戻しました(もともと石けん工場で働いていた弟さんですが、パレスチナの経済状況が悪化したためドバイに出稼ぎに行っていました。数年前にいったんナーブルスに戻ってきていましたが、数ヶ月でまたドバイに行っていました)。怪我をするほど仕事してきたことを誇りに思う気持ちも、ショックでつらかった気持ちも、どちらも本音なのでしょう。

人柄など

マジュタバさんはナーブルス生まれ、ナーブルス育ち。子どもの頃から石けん作りに親しんできました。11歳の時に、石けん作りの全行程を一人で行なうことができたそうです。(「そんな子どもは世界で私1人だ!」と言っていましたが、どうでしょう!?)

ナーブルスは「ジャバル・アンナール(火の山)」と呼ばれ、抵抗運動の拠点として有名だったところです。その分、イスラエル軍による過酷な弾圧も受けてきました。マジュタバさんも若いときには、第一次インティファーダ(1987年〜1993年)に参加したそうですが、自治政府発足後、いまの複雑な政治状況の中では、少し政治に距離を置いているそうです。

マジュタバさんに出会って10年近く。どんなにひどい軍事経済状況でも、前向きに石けん作りに取り組む姿に感銘を受けてきました。また、検問所での若いイスラエル兵士に対するマジュタバさんの「大人な」発言にも、印象深いことが多くありました。(『ぜいとぅーん』27号参照)

来日中に印象に残ったのは車の運転。何年乗っても運転の下手な私は「マヨ、ハンドルを持つ手は10時10分」と運転中何度も注意されてしまいました。

パレスチナでは、スピードの出し過ぎも多く、交通事故も起きています。とくに、乗り合いタクシー(日常の交通手段)の運転手は、普通の道路で100キロ以上出すことがあり、何度も怖い思いをしました(他の乗客はそんなに怖がっていないので普通なのでしょう)。

マジュタバさんは、いつも職人さんたちを車で拾って石けん工場に行くので、運転は慣れていますがスピードは出さないと言います。「運転に集中すれば良いけれど、つい、石けんのことを考えてしまうから、、、」だそうです。マジュタバさんらしいなあ、と思いました。

これからも

前号で紹介したサラ・ロイさんが指摘しているように、パレスチナには、オスロ合意以降、莫大な各国援助金が流れているにもかかわらず、いや、占領体制を支える形で莫大な援助資金が流れ込んでいるからこそ、経済状況はますます悪化しています。ナーブルスの石けん工場も半分以上がつぶれてしまいました。マジュタバさんたちのオリーブ石けん工場が存続できるよう、素晴らしいオリーブ石けんを私たちが買い支え、パレスチナ市場でも(ガザでも!)この高品質な石けんが売れる日を願っています。

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投稿日:2010年04月03日(土)
この記事のURL:http://www.paleoli.org/?eid=49