9月からオリーブ石けんが新しくなりました。

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パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
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生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

『ぜいとぅーん』53号 アリエル・シャロンの死

『ぜいとぅーん』53号 2014年1月27日発行

早尾貴紀(寄稿)

 イスラエルの元首相のアリエル・シャロンが今年1月11日に死去しました。首相在任中の2006年に突然の脳卒中で倒れて以来8年間昏睡のままの死去でしたが、シャロンの長い人生はそのままイスラエル国家の歴史と重なります。

 シャロンは1928年にイギリス委任統治下のパレスチナに生まれ、ユダヤ人の軍事組織ハガナー(建国後にイスラエル軍となる)に入隊し、1948年建国前後の第一次中東戦争から1973年の第四次中東戦争のすべてに従軍しました。

 その後、政治家となり、1982年のレバノン侵攻時には国防大臣として指揮を執り、その際ベイルート郊外のサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプをレバノンの民兵組織が包囲攻撃し1000人以上を虐殺するのを、積極的に手助けしました。イスラエル軍がキャンプを封鎖し、武器を民兵に与え、死体処理のためにブルドーザーを提供したのです。

 1990年にはシャロンは住宅建設大臣に就任、ヨルダン川西岸地区へのユダヤ人入植地建設を推進し、90年代の入植者急増に大きな役割を果たしました。しかもこの入植地計画は、イスラエルと西岸地区を分かつグリーンライン(軍事休戦ライン)に沿うように作られ、事実上イスラエルの領土を地続きに拡大することを周到に意図していました。


 2000年秋に、右派リクード党の党首としてシャロンは、エルサレム旧市街にあるイスラームの聖地で、アルアクサー・モスクもあるハラム・アッシャリーフ(「岩のドーム」で知られる)を、2000人の武装警官を引き連れて強行訪問しパレスチナ人を挑発しました。投石も含むパレスチナ人の抗議行動に対して、狙いすましたようにイスラエルの警察と軍が発砲、弾圧し多数の死者が出ました。一気にパレスチナ全土に蜂起が広まり第二次インティファーダ(当時はアルアクサー・インティファーダと呼ばれた)が開始されるとともに、弾圧するイスラエル軍も全面的に軍事展開しました。

 この極度の緊張状態のまま2001年になってすぐの首相選挙でシャロンは圧勝、以降首相としてさらに容赦のない軍事作戦を西岸地区・ガザ地区で展開しました。空爆、暗殺、拷問、家屋爆破、検問所設置、外出禁止令などによって市民生活は完全に破壊されました。

 そして極めつけは2002年からの隔離壁建設です。シャロンは、自らも建設に関与した西岸地区の入植地群をイスラエル側に取り込むように、西岸地区の内部に高さが8mにも達する隔離壁を、全長700kmにわたって強引に建設しました。将来的な「国境」として既成事実化するかのように、西岸地区の広大な土地が切り取られ、パレスチナ人は狭い「巨大監獄」へと閉じ込められ、そしてイスラエルのユダヤ人たちは見えなくなった「壁の向こう側」(占領地)への関心を失っていきました。

 その一方で、ガザ地区に対して、シャロンは、2005年に「一方的撤退」という劇的な政策を主導しました。ガザ地区内部にあるユダヤ人入植地とそれを防衛するイスラエル軍基地をパレスチナ側と交渉もなく一方的に撤収するというものです。しかし実際には、ガザ地区の内部に入植地や基地がなくなっただけで、ガザ地区全体が陸・海・空すべてにおいて軍事的に封鎖されたままで、西岸地区同様に「巨大監獄」と化しただけでした。

 しかし、この一方的撤退は「ガザ占領の終わり」として巧妙に演出され、シャロンは「和平に取り組む政治家」というイメージを持つようになりました。またイスラエルの極右政治家らは、「西岸地区からガザ地区まで1cmも譲るべきではない」という立場に固執し、シャロンを裏切り者とみなし批判しました。極右のユダヤ人至上主義者には、ガザ撤退はもちろん、隔離壁でさえも西岸地区の一部を譲歩するものとして許容できなかったのです。

 それゆえにシャロンは、2005年の暮れに突如、同志らとリクードを飛び出し、シモン・ペレスら労働党の一部と合流し、新党カディーマを結成し年明け2006年の選挙に臨み圧勝する見通しでしたが、選挙直前に病に倒れてしまいました。カリスマ的指導者を失ったカディーマはその後徐々に失速。シャロンら「現実派」が抜け、より強硬派となったリクードが、和平に関心を失ったイスラエルでいま政権の座にあります。

 シャロンの死去を伝える報道では、この最晩年の動きから、「現実的な和平に取り組んだ中道の政治家」という面を強調する記事が目につきました。しかし、シャロンの生涯を振り返ると、戦争・虐殺・占領・入植と、和平と正反対に位置することは明らかです。最晩年の一方的政策も、パレスチナ側との和平交渉、あるいは国際的な和平交渉を頑なに拒否してなされたものだということは、忘れてはなりません。

 

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投稿日:2016年01月10日(日)
この記事のURL:http://www.paleoli.org/?eid=121