オリーブオイル石けん サラダ オリーブオイル工場オリーブの林

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

第4号(2001年11月23日発行)
  1. お歳暮・クリスマスキャンペーン
  2. 特別インタヴュー

     
    オリーブの塩漬けを作る準備をしている村の女性たち。一番右がサーミヤさん。

    パレスチナは今、オリーブの収穫期です。塩漬け用のオリーブは実が緑色のうちに収穫。オリーブオイル用は実が黒に変わってから収穫します。

    日本向けオリーブオイルが届くまで

    デイル・ハンナ村のフサインさんの一家のオリーブ林で収穫 
    ↓ 
    アラーベ村のオリーブオイル工場へ 
    (収穫したら24時間以内に) 
    ↓ 
    マジダル・クルム村で保管 
    (風味や栄養を失わないように、薬品やフィルターを使わずにおりが沈むのを数ヶ月待ちます。) 
    ↓ 
    村の女性たちによる、オリーブオイルのボトルづめ、ラベル貼り、荷造りなど 
    ↓ 
    ハイファ港から日本へ

    1. アブドゥル=マジド・フセインさん

    Q. オリーブを栽培するときに一番大変なことは何ですか?

    A. ガリラヤでオリーブを育てるときに一番難しいのは、水問題です。私たちの地域では、潅漑なしでは少ししか収穫できません。アラブ(パレスチナ)社会に十分な利益をもたらすようにオリーブオイル産業を発達させるには、潅漑が必要です。今日まで、イスラエル政府は、アラブ農民に水の割当を拒んでいるし、ガリラヤのアラブの村々の水システムに対するどんな投資も妨げています。同時に、政府はガリラヤのユダヤ入植地のまさに近代的農業には巨額の予算を投資しています。しかし、アラブの村々のオリーブ林は2つの利点を持っています。

    1. オリーブオイルの味がとてもよいこと
    2. どんな化学薬品も使っていないこと

    オリーブの木々は全く自然で有機的な方法で育てられています。

    2. サーミヤ・ナーセル・ハティーブさん

    Q. シンディアナの活動に参加したことで考え方や何かが変わりましたか? 将来の夢は何ですか?

    A. 私の夢は、シンディアナの活動を、女性を多く雇えるようなプロジェクトに発展させることです。今、私たちは4人の女性グループです。全員がアル=バカー女性フォーラムのメンバーで、30才から40才、既婚で子供がいます(3人から6人)。彼女たちは、また、母親学校プロジェクトを「卒業」しています。シンディアナで働く女性たちは、政治的、社会的意識をもっとも強くもっており、女性フォーラムの活動に一生懸命です。シンディアナでの仕事は彼女たちに非常に前向きないい影響を与えています。彼女たちは家にいる女性と違います(経済的に夫に依存していない、家族関係だけでなくより広い社会関係を持っている、家族から独立した生活を持っていることなど)。仕事は女性たちの関係を強め、バカー・センターとの関係も強めています。シンディアナの活動はまた、バカー・センターの活動を強めます。そして、彼女たちの仕事はほかの女性たちの意識を高めています。

    注)アル=バカー・センターは、「ガリラヤのシンディアナ」の姉妹組織で、ヤーファとマジダル・クルム村にあります。母親学級、ユースキャンプなど女性や子供を中心に文化教育、社会活動などを行っています。村の女性の大半は「主婦」です。

    Q. メッセージがありますか?

    A. 日本とパレスチナは遠く離れているけれど、私たちはみんな人間です。実際、オリーブオイルは私たちの文化の中で中心的な要素ですが、あなたたちはオリーブオイルをよく知りません。これは、実りの多い、楽しい二つの文化の出会いとなりうることを示しています。オリーブオイルを通して、あなた方は、世界が興味深く、すてきで豊かなことを発見できるでしょう。文化をつなぐことは、戦争の文化やナショナリズムに対する、まさにオルタナティブなのです。

    Q. オリーブ収穫期の様子はどうですか?

    A. オリーブを摘む間、私たちは自然や土地に満たされます。見せかけの近代生活、消費社会から遠く感じます。私が土地で働いているとき、私はある意味、土地の没収から土地を守る闘いに参加していることになります。毎シーズン、オリーブを育てること、収穫することは、より多くのアラブの土地を没収しようとするイスラエルの政策に対する、私たちの答えなのです。 
    私はまた、家族みんなが一緒に働くという感じが好きです。お祭りみたいです。オリーブ林の中での人間関係は、家にいる時とは違います。一緒に食べ、一緒に働いて、友達みたいに感じます。

    注)たいていの村の一角にオリーブ林があり、農家でなくとも、自家用のオリーブオイルや塩漬けをまかなう分くらいのオリーブの木を家族で持っています(が、イスラエルによって没収された土地も多いのです)。

    Q. ガリラヤのラマダーン(断食月)やクリスマスの様子はどうですか? オリーブオイルを使った特別な料理がありますか?

    A. ラマダーンは宗教的な行事で、私は参加していないのでラマダーンについては答えられません。みんなのように、断食していないから。ラマダーンの最後の3日間は、イード ル=フィトゥルで、ほかのお祭りと同じです。クリスチャンとムスリムのお祭りの食事に違いはありません。すべてアラブ料理です。

    注)全体的には、パレスチナ暫定地区の村と比べたらガリラヤは宗教色が薄いように感じますが、断食についてもきっちり守る人から気にしない人まで様々です。

  3. お料理講座第4回「お祭りを迎える食事」
  4. 「複雑な構造をした1000年都市あった複雑な構造の家にまつわる話」(モロッコ王国の都市フェズ)

    モロッコのとある街で「釣りバカ日誌」と「教祖誕生」と「寅さん」映画の上映会を終え一服していたときのことでした。一人のモロッコ人が私に近づいてきました 
    「家を借りるつもりはありませんか」 
    「いいえ、いまラバトにすんでいるので・・・・」 
    「では、ちょっと見るだけ見てみませんか」 
    モロッコではよく見知らぬ人から、その場では即答できないような結構重要な話をいきなり持ち掛けられたりしました。このときの若い兄ちゃんは、身なりもきちんとしてるし言葉遣いも丁寧だし腰も低いしなかなかの男前でした。しかしモロッコの場合こういう人が一番危い場合があるんです。がしかし、、その遠慮がちでどことなく、おどおどとした感じが東北人ぽくて好感が持て、当方も暇だったこともあり、まあいいか、まあまあ信用できるほうかな、と、誘われるままついて行きました。

    男が私に見せたいという家があるその街は1000年都市といわれています。イドリースという男がBC8世紀ごろ宗教的いざこざをのがれて西の辺境モロッコまでたどりつき自分の都をつくったことから始まっています。文部科学省歴史教育ではモロッコのイドリース朝というんであります。イドリースはシーア派イスラム教徒だったそうです。

    なにせ1000年の街ですから、もう古いとか新しいとかではなしに石や漆喰で作られた巨大な遺跡のあちらこちらに人がドシャドシャと皆して住んでるという感じで、街中がただただ古いものだらけなのです。人に聞いても「カディーム(古い)」、「カディーム・ジッダン(うんと古い)」、「マーアレーシュ・カディーム・ジッダン(もうわからないくらいうんと古い)」のどれかしか言ってくれません。また古いだけでなく非常に複雑なのです。街の成り立ち自体が「節度のある無秩序」というか「秩序だった無秩序」という感じでルールはあるにはある、だけど好き勝手やる、というふうです。

    とは言いつつも、イスラム法によって、どこに公共施設が必要なのかとか、一般住宅の建て方や隣の家との境界から生じる問題の解決の仕方とか(たとえば雨水を隣地に流れ込まないようにしろとか)などきちんと決まっているようですけど、異文化から来て初めてここを訪れた人にとってはただただ迷路にはまり込むという感じでしょうね。あっという間に迷ってしまう複雑に込み入った構造になっています。原理的には、シンプルな形を多様に組み合わせた結果による複雑さなんでしょうけどねえ。主要な箇所にはマスジド(イスラム寺院)とハンマーム(公衆サウナ)とマドラサ(学校)とスーク(市場)があります。その他、作っているものによって街区が分かれております。即ち、真ちゅう細工地区、銀細工地区、木工細工地区、なめし皮製品地区、薬売り地区、香辛料売り地区、そしていわゆるスークといわれる肉魚野菜果物日用品なんでも売ってる地区があり、らくだの隊商隊が常宿としたフンドクあり、ジャッキー・チェンのカンフー映画しか上映しない映画館あり、どんな髪でもバリカン一本で仕上げてしまう床屋さんあり、そんなに音が割れるほどボリューム上げなくったっていいジャンと思うほど大音量でラジカセかけてるカセット売り屋あり、民族衣装を客にきさせて写真を取ってくれる写真屋さんあり、はぎれ屋さんあり、ビーズ屋さんあり、歯抜き士(決して歯医者ではない)あり、エジプトから出稼ぎに来ているおねえちゃんが踊るベリーダンスがメインの観光客相手のレストランあり、もう甘くて甘くて大変というお菓子ばっかり売っているお店あり、、コーヒー一杯またはミント茶一杯で10時間くらい粘っても大丈夫な喫茶店あり、ロバ君の蹄鉄交換屋さんあり、いわずと知れたじゅうたん屋あり、エピスリあり(フランス保護領時代に入ってきた雑貨屋のような店)、他方、路上ではタバコ一本売りのじいさんあり、物乞いあり、いつ死んだかわからない鳥や左右サイズ不ぞろいの靴など「これ売ってんのかあ?!」と思わず聞いてしまいたくなるおじいさんとか、暗がりにただしゃがんでいるおばあさんとか、なんだか知らないけどののしりあってる胴の太いおばさんたちとか、珍しがって入り口からずーとついてきてるガキとか、屋台のこげたにおい、香辛料の匂い、生ごみのにおい、甘いような酸っぱいような変な匂い、強烈な香水のにおい、そしてなにより強烈な陽射し!!、何でもかんでもあります。これらが巻貝みたいな迷路の道にドバーッツ!と並びに並んでいるのです。どんどん万華鏡のように目の前を風景が回転していきます。入り口からしばらく歩くともう前述のような雑踏と匂いと陽射しで頭がフリーズして、思考能力が著しく低下していきます。今まさに通り過ぎようとしている通りの様子と角を曲がったつぎの通りの様子が非常に似通っているため区別がつかず「あれっ?」と思って振り返ると今曲がったばかりの角をもう見失ってるという感じで、そしてアナタはもうすでに迷っています。あせるほどに思考停止状態が深まってゆきにどんどん迷路にはまり込んでいきます。そしてついに、「もうだめだ、わからん」なんて思いつつボーっと突っ立ってると、今度は後方から「アンダック!!(ほれアブねーぞ)」というおじさんの怒声と共に背中に家庭用生ごみを満載して突進してくるお目目のかわいいロバ君に激突または踏み潰されそうになってしまうという状況です。---いざとなったらもう身をゆだねてしまう、という力量がない人は本当に精神的に参ってしまうくらい日本的感覚から言うと何もかもが整然としていないところです。

    しかしながらそんな雑踏喧騒の昼間を抜け、夕日が沈むころになると徐々に涼しくなり心地良いゆったりとした風も吹いてきます。空と大地が夕暮れ色に染まって街の中央にある広場に市井の人々が三々五々集まりだし、「今日は何かおもしろいことあるかな」という顔して散策している時刻。各屋台が軒を並べ、羊肉を焼く匂いとそれに乗ってやってくるクミンの脳幹を刺激するいい香りがしてくるような夕刻の風景、いいですねえ、好きでしたねえ。その一場面一場面が一刻一刻が脳裏焼き付けられてしまうほど時の流れに力強さがあるんですね。

    その広場の片隅に、裾のほつれた7分ズボンをはいて、棒切れを傍らに備え売り物の番をしている少し頭の弱いおじさんがいました。毎回定時になると2〜3人のガキどもにからかわれるのですが、おじさんは待ち構えていたように、棒を頭上にかざしながら「このくそガキィ待てー!」と夕日に向かって追っかけてゆくんですね。なんというノスタルジックな夕暮れ時なんでしょう、たまりませんでした。おじさんのサンダルの片方の鼻緒が壊れているだけにどうしたってガキには追いつけないのです。ガキどももそのことは重々承知で毎回からかいに来るのです。広場に集まっている人たちの「またやってる」という感じで笑ってるどの顔にも夕日があたってそれはそれはタルコフスキー的なカットの長〜いシーンとなって脳裏に刻まれてしまうのでした。米国人権委員会の人が見てたらすぐ派遣団を送ってくるでしょうね、「その人権抑圧をやめれ!」と。

    ところで、私に話しかけてきたその男が案内してくれた家はそんな街中にありました。入り口には穀物を蓄える倉庫のような空間があり、もう出ないけど井戸もありました。内部はかなり広い家でした。前述の分類でいくと「うんと古い」という感じでした。そしてまた、「あれ?ここはふつうのモロッコ住宅じゃないな」という感じがしました。何かが変な感じなんです。その理由のひとつはその家が非常に複雑な構造をしていたからでした。おそらくは3階建て?!プラス屋上だと思うんですけど、途中に中二階や一階の下に半地下があったりするので迷ってしまうのです。しかも入り口から2階の広間に通じる階段が異様に狭く作られていて大人一人やっと通れるという狭さです。また各部屋には隠し部屋と隠しスペースがあって「なんだこの家は!この家の住人は何者だ!」と思わずにはおれない家でした。さらに内部に進んである部屋に来たときこの複雑な構造の理由がわかりました。ユダヤのシナゴーグ的なモザイクを施した作り付けの大きな棚が2つあったんです。それらは明らかにイスラムのモスクのモザイクとは異なります。しかもその大棚のそれぞれに50くらいマッチ箱くらいの引き出しがついていました。

    この家はユダヤ教徒の商人の家で薬を扱っていたんですね。狭い階段も隠し部屋もそうです、いざというとき自分たちの身を守るためのからくりなんですね。この家の持ち主であった薬商人は1948年にイスラエルが建国されたとほぼ同時にイスラエルに移住したそうです。

    「モロッコはイスラム教徒の国なのになぜユダヤ教徒がいるの?」と思われる方もあるかもしれません。

    このユダヤ教徒商人たちは一体どこから来てどこへ行ってしまったんでしょう。 ご承知のとおり、モロッコとスペインはジブラルタル海峡を挟んで目と鼻の先です。高速フェリーで一時間です。隣同士の国なんですね、モロッコとスペインは。今を遡ること約500年以上前、1492年はコロンブスが新大陸を発見したとされる年でありますが、イスラム教徒とユダヤ教徒にとってはとんでもなくひどい年でした。というのもキリスト教徒によるレコンキスタが完成した年といわれているからです。カトリックキリスト教徒側から見れば約700年間に亘るイスラム教徒によるスペイン、ポルトガルつまりはイベリア半島支配に終止符を打ち、豚を食わないやつらをアフリカに追い返した栄光の年であるわけです。今もスペインの南部アンダルシア地方でハモン(豚肉の塩漬け生ハム・・非常に美味かつビールとの相性抜群!!)が好んで食べられてきたのもこんな歴史が背景にあるわけです。この当時スペインにおいて迫害され追放されてイスラム教徒とともにモロッコに移住したユダヤ教徒は約10万人といわれています。もちろんイスラム教徒はもっと多数ですが。彼らユダヤ教徒はイスラム教徒による700年間のイベリア半島における各都市運営の中枢を担っていたんです。

    モロッコに逃れたユダヤ教徒の多くはその後、といっても約450年後のことになりますが、前述のように、1948年のイスラエル建国によって1956年までに7〜8万人のユダヤ教徒がモロッコを出てイスラエルに移住しました。モロッコには現在でも約1万人のユダヤ教徒が生活しております。もちろん現在ではモロッコの公用語であるアラビア語を話しています。モロッコ憲法の第一条には「モロッコの国教はイスラム教である」と記されていますがと同時に非ムスリムも尊重するとなっています。ユダヤ教徒には独自の身分法(婚姻、離婚、家族関係、相続等宗教と深い関係が残る部分の法律)とそれによる裁判が認められています。またモロッコでは現在でも時々「○○・アンダルーシィー」という家名の人に出会います。(スペイン語のアンダルシアと同義でもともとスペイン南部地帯の呼称。モロッコでは旧家名家となっています)これらの人はレコンキスタ後先祖がスペインのカトリックキリスト教徒の迫害から逃れてきたイスラム教徒やユダヤ教徒の末裔です。

    思わぬ男の誘いから私の歴史研究がまた一段と深まった1000年都市の複雑な構造をした家の話でした。最後までこの話しに付き合ってくださった読者の皆さんありがとう。ではまた次回。

  5. 「9月11日の事件をどう考えるか」
  6. 「9.11以降のパレスチナ/イスラエル」
  7. 皆さんの声コーナー
  8. 編集後記

投稿日:2001年11月23日(金)
この記事のURL:http://www.paleoli.org/?eid=198

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