小田原(10/27)や名古屋(12/1)でお話します!

オリーブオイル石けん サラダ オリーブオイル工場オリーブの林

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

35号(2009年2月6日発行)
  1. 1月5日〜19日に皆川が生産者団体他を訪問しました。12月27日、イスラエル軍によるガザ空爆が始まり、1月3日には地上侵攻。インターネットでは、ガザから悲鳴のような情報がどんどん飛び込んできました。しかし、ガザ以外の地域のことは伝わってきません。年始の訪問は、数ヶ月前から予定していたため、とにかく出発しました。

    着いてみると、検問所などは「通常通り」だったので、ほぼ予定通り生産者を訪問しました。ヨルダン川西岸地区(以下、西岸地区)もガリラヤ地方も、一見、日常生活が続いていました。ただ、男性に限らず、女性が頭にはマンディール(スカーフ)をかぶり首にハッタ(クーフィーヤ)を巻いていたり、子どもたちもハッタを首に巻いていたりして、ガザの人々に連帯の気持ちを表していました。

    1月7日がギリシャ正教などのクリスマスでエルサレムには飾り付けもあり、そこそこに観光客もいました。ジェリコも「観光客は減ってきた」とは言っていましたが、大型観光バスが数台停まり観光客が来ていましたし、「誘惑の山」に向かう観光用ケーブルカーも動いていました。

    西岸地区では、イスラエルのガザ攻撃直後には、抗議行動がありイスラエル軍の発砲で数人亡くなりました。しかし、私が訪問した1月の2、3週目には、イスラエル軍と接触しないように、パレスチナ自治政府が抗議活動を抑えていました。また、意外なことに、エルサレムにいたイスラエル警察や、西岸地区の検問所にいたイスラエル兵に緊張感はありませんでした。

     

    西岸地区もガリラヤ地方も、家でも街中のお店でも、テレビニュース(アル・ジャジーラなど)を一日中つけっぱなしでみんなで見ていました。テレビは一日中ガザに関するニュースで、ガザからの現場リポート、遺体やけが人の映像を流し、また、識者の分析、討論なども流していました。サウジやリビアなど海外に搬送された負傷者にインタヴューも多くありました。これらを見て子どもたちが泣いてしまった、ということを、西岸地区でもガリラヤ地方でもお母さんたちから聞きました。子どもまで殺されてしまっていることの衝撃と、自分たちも攻められるかもしれない恐怖の両方のようです。そのため、親がチャンネルを変えたり、また、子ども自身映像に耐えられず、他のチャンネルに変えたり、というのを実際目にしました。

    また、世界各地での抗議デモの様子も繰り返し流されていました。街角でニュースを見ながら、「(抗議の報道が全くないが)日本ではどうなんだ?」と問われたりしました。日本の総理について尋ねられ「よくないんだ、、、」と言ったら「私たちの大統領と同じだな」と言われたこともありました。

    人々は普段から新聞をよく読みますが、たいていの人が読んでいるのはアル・クドゥス紙。何年か前からアル・アイヤーム紙は政府の広報紙状態、アル・クドゥス紙も一部コントロールされているがまし、という話でした。

    どの町でも、中心部にはガザ攻撃に抗議し、人々を悼むテントがあり、金曜日ごとにデモをしていました。

     

    9日(金)、ナーブルスでは人通りが少なく、難民キャンプ近くや中心部にパレスチナ警察や機関銃を持ったパレスチナの治安警察(兵士)があふれていました。そして、200人弱の小さなデモ(今までなら数千人〜数万人規模)の後にこん棒を背負った100人の警察官がついていました。デモは町の中心部だけで許可されていて(他の地域でも町や村の中だけ)、検問所などイスラエル兵士のいるところに向かうことは許可されていません。ラマッラーでは、実際、催涙弾やこん棒でデモ参加者がパレスチナ警察に鎮圧されている様子をテレビで見ました(9日は各派の小競り合いがあったようですが、それより前に検問所に行こうとする学生デモをパレスチナ警察が催涙ガスで止めた、という記事を読みました)。ナーブルスのデモでは各派の旗は見られず、パレスチナの旗だけが掲げられ連帯が強調されていました。

    ハマスについては人々の意見はいろいろのようでしたが、私が出会った知人、町の人たちは誰1人アッバス大統領のことは支持していませんでした。アラブ各国の首脳については、毅然とした発言が支持を集める一方、それも口だけという非難も浴びていました。南レバノンからイスラエルにミサイルが飛んでくることを期待している人も多くいました。イスラエルによる攻撃は繰り返されていることです。今回の攻撃では(ただでさえ信頼されていないのに)パレスチナのアッバス大統領とエジプトのムバラク大統領が完全に信頼を失っていました(イスラエルの外相がガザ空爆直前にエジプトを訪問しているので、ムバラクは事前に知っていたのではないかと疑われています)。

    エルサレム旧市街のダマスカス門前でも小規模のデモがありましたが、ここでは「EUよ、恥を知れ」「世界は私たちのことを知るべきだ」などと呼びかけていました。

  2. どの生産者団体も、世界不況の影響を受けていました。

    ナーブルス石けん工場

    いつも何かしら新しいことをしている工場長のマジュタバさん。18種類の石けんを完成し、工場のスペース拡張、事務所の改造、リーフレット、ウェブサイト、など何もかも揃っていました。でも、注文がなく、いま、月に6〜7日しか操業できていません。訪問したときも、工場長のマジュタバさんが一人で事務仕事をしていましたが、工場は操業せず、他の職人さんたちは来ていませんでした。

    妹のスハさんが離婚してナーブルスに戻り、工場を手伝い始めて、仕事が進んだこともよく分かりました。彼女はコンピューターが得意なのです。あちこちにメールを出して、国際機関や援助団体が工場を訪問することもあったそうです。しかし、資金援助で設備拡張はできても注文があるわけではありません。各国の市場も調べ、ネットで宣伝もしているため問い合わせもあるそうですが、価格や場所の為に注文にはつながらず。「日本は自然石けんのとてもよい市場だそうじゃないか!」とプレッシャーをかけられてしまいました。

    ナーブルスは古くからオリーブ石けんで有名で、20以上の工場があったのですが、とうとうマジュタバさんの石けん工場を含めて3工場になってしまいました。いま、マジュタバさんの工場で働いている職人さんの一人も、もともと自分の石けん工場を持っていたのですが閉鎖したそうです。一方、エルサレムに新しい石けん工場が作られ、また、石けんプロジェクトも各地で進んでいます。一番売れているものは、(イスラエル企業を通じて入ってくる)中国製の安い石けんです。西岸地区北部にあり、他の地域より厳しい封鎖を受け、検問所に囲まれているナーブルスが、中部や南部の市場と切り離されている現状が固定化されつつあります。また、ラマッラー、つまりアッバス大統領とファイヤード内閣の人々の周りにのみ、お金が流れ込んでいる状況です。西岸地区では公共工事なのでしょう、道路補修が始まっています。

    ナーブルスと石けん工場の間にある検問所が初めて人の移動に対してノーチェックになりました。2005年までは軍事封鎖地域。それ以降は、検問所があって一人一人がチェックを受けていたため、5分で通れることも2時間かかることもありました。それが、訪問の3週間前(ガザ空爆の2週間前)から、検問所はそのままでイスラエル兵も常駐しているけれど、チェックなしになったのです。もちろん、いつでも再開の可能性がありますが。

    西岸地区全体でも、今回、人の移動に対して、検問はいつもよりは緩く感じました。しかし、生産物の移動はより厳しくなっているようです。エルサレム近郊の人からは、西岸地区のものを仕入れて売るだけでなく、買い物してくるのも違法になった(まだ取り締まりは厳しくない)と聞きました。また、シンディアナからは、西岸地区の生産物を輸出用にイスラエル側に持ってくる場合には、税関からの輸出登録や通関業者からのコンテナ予約などの書類を用意しなければならない、と聞きました。

    ところで、西岸地区では、ちょうど小学生から大学生までテスト期間の真っ最中でした。マジュタバさんの双子の子どもたち(11歳)も、難しそうな英語の教科書を勉強していました。文法の教科書も全て英語でのみ説明してあります。ガザ攻撃のニュースが毎日続く中、勉強に集中しにくい状況ですが、どこの家でもテスト勉強をしていました。

    イドナ女性組合

    イドナ村女性組合で働くのは中心スタッフ3人と刺繍や縫製を行なう人48人。徐々に大きくなっていたイドナ村女性組合ですが、ここ数年はほぼ横ばいです。不況の影響なのか、値上げの影響なのか、ちょうど私が訪問した12日に一つ注文が来るまで、12月1月の1ヶ月半は全く注文がなかったそうです。

    中心スタッフのナイームさんとサーディーンさんは週5日センターで働いています。技術チーフで、昨年5月に出産したヌハさんは週3日、赤ちゃんと一緒に近くの村から通っています。「育児と仕事の両立は問題ない」と言っていました。他の女性たちは材料をセンターに取りにきて家で刺繍をします。昨年からヌハさんがEメールを使えるようになりましたが、電話回線でネットを繋いでいるので画像などを送るのは他の人に頼んでいます。

    布や糸などほとんどの材料をヘブロンという近くの町から購入しています。たまにベツレヘム、ラマッラーまで出かけることもあるそうです。ただ、ラマッラーは種類は多いけれども高い。最近さらに値上がりしています。直線距離では45kmのラマッラーに行くのに、ワディ・ナール検問所を通り乗り合いタクシー(主要な交通手段)で3時間かかります。

    綿布はエルサレムの綿工場から買っていますが、エルサレムに行く許可証が出ないので、直接受け取ることはできません。逆にエルサレムの団体に商品を出荷するのも、受け渡しが難しく、相変わらず困難が続いています。

    イドナ女性組合は、設立当初から、縫製の専門家である水本敏子さんがかかわっていて、新製品開発などは、水本さんとヌハさんが相談しながらやっています。水本さんは、自分がいなくても女性たちが自立できるようにするのが本来の支援だという立場で接しています。しかし、検問所に遮られてあちこち行くことのできない女性たちが、海外で売れるものを考えていくのは大変です。

    エプロンの柄と同じテーブルミニクロスと大きいサイズの巾着を新たにお願いしてきました。こんなものが欲しい、というリクエストがあればお寄せください!

    「私たちは大丈夫。ガザのことはとても悲しい。小さい子どもも亡くなっている。悲劇だ。」代表のナイームさんが言いました。この言葉は他でも聞きました。しかし、西岸地区の状況が改善されているわけではありません。「大丈夫」「普通よ」という言葉を私がそのまま聞いてはいけないな、と思います。

    新商品(ポシェット):予約受付中。お問い合わせください。

    綿工場

    エプロンやテーブルマットの無漂白の綿布を作っている工場を訪ねました。エルサレム旧市街の一画にあります。工場と言っても広い一部屋に小規模な機械が並んでいます。訪問を約束した日が、ガザ攻撃に対しての抗議でエルサレムと西岸全域でストライキになってしまったため操業していませんでしたが、通常は16人以上が働いているそうです。

    代表のファーリスさんの祖父がイスラエル「建国」によって、マジダル・アシュケロンからエルサレムに追われ、それ以来ずっと綿布を作り、地元市場で販売しているそうです。

  3. ヨルダン渓谷

    2007年末に来日したファトヒ・クデイラートさんの活動に同行して、ヨルダン川渓谷地帯を訪問しました。この地域は、日本政府が「平和と繁栄の回廊」構想プロジェクトを行なっているところで、これまで『ぜいとぅーん』でも問題を指摘してきました。(詳しくは、「パレスチナ情報センター」のサイトをご覧下さい。)

    ヨルダン川渓谷地帯は軍事的にも行政的にもイスラエルの管理下にあります。建物建築も修復も禁じられています。また5ヶ所ある検問所も他の地域より通行が厳しく、原則、ヨルダン川渓谷地域の住民IDを持っている人しか通れません(特に運転手)。

    今回は、ベドウィンに薪を配るプロジェクトと困窮家庭の家屋修復を行なっていました。家屋修復は、イスラエルに禁止されているので、海外の援助団体を説得するのに3年かかったそうです。ただ、日本政府のプロジェクトが始まってから、海外の多くの団体が渓谷地帯から撤退しました。

    学校建設も禁じられていますが、既に一つ学校を作りました(イスラエルから破壊警告を受けていますが国際的批判もあり破壊は免れています)。そして、ベドウィンコミュニティのため、さらに新しい学校を作ろうと、1日であちこち回り、いくつものミーティングを行なっていました(現在、この地域には小中学校がなく、子どもたちは7キロ離れた学校に歩いて通っています)。イスラエルから許可は出ないものの、学校を作ったらパレスチナ自治政府から学校の先生を派遣してもらえることになったそうです。テントや青空の下でのミーティングでとても気持ちが良かった!

    ベドウィンコミュニティには、水も電気もありません。井戸を掘ったり電気を通したりすることをイスラエルに禁じられているのです。イスラエル人入植者用の電線も水道管も近くを通っているのに。訪問前は学校建設が優先事項なのかピンと来なかったのですが、ミーティングの様子を見ていると、学校をつくるということがコミュニティの力を強くするということがわかりました。

    ベドウィンのある家族のところでは、お客様に出すため、羊を屠り、料理するところまで、裏方を見せてもらいました。お肉になるまで30分くらい、あっという間でした。

    その間もベドウィンの家族は本当に絶えず仕事をしていました。家畜にえさをやったり、水をタンクから運んだり、ヨーグルトを作ったり。でも、合間を見て話していたら、働きっぱなしで家を守る「伝統的な女性」に見えた女の子が、定時制大学の医学部の1年生(17歳)、とわかり驚きました。家の仕事と勉強の両立は大変、と言っていましたが。パレスチナらしい感じがしました。(写真:水タンクで水を購入。全ての生活用水)

    この地域は、もともと農業地帯ですが、いまは、ユダヤ人入植地の青々とした畑が広がり、水も土地も奪われて不十分なパレスチナ人が、ユダヤ人農地で働いています。トゥバースに住むある人は、故郷バルダラ村に農地を持っているが、バルダラ近郊のユダヤ人のナツメヤシ農地で働いているそうです。わずかな自分たちの土地で野菜を作っても販路がありません。近郊の町ジェリコでは主産業が農業なので競争となり売れません。ナーブルス、ジェニンに売るには検問所で時間を取られるし交通費もかかります。結局、イスラエル人の仲買人がたまに来るときに、相手の言い値で売るしかありません。

    今回、乗り合いタクシー(主要な交通手段)で、ジェリコからトゥバースに向かうとき、もう日も暮れていたため、ハムラ検問所で30分しか待たされませんでした。通常は2時間以上待たされたりすることのある検問所なので、ラッキー!と思いましたが、後から、本当は検問所がないのが当たり前なのに、喜んでしまう自分の感覚が麻痺していることに気がつきました。

  4. ガリラヤのシンディアナ

    事務所倉庫では、いま2人のユダヤ人スタッフと5人のパレスチナ人スタッフが働いています(1人育休中)。もう一人増やすことを考えているそうです。

    ハナーンさん(36歳)がチーフになっていました。大学進学の資金を貯めるために働いていたドゥーリーンさんは、1年間働いた後に大学生になりました。代わりにもう一人のハナーン(18歳)がやはり大学に行きたいと働いていました。他の女性はみな子どものいる人たちです。働いている女性たちの夫や父親は、ラムレやテルアビブで建設労働をしています。ガリラヤ地方からは何時間もかかり移動コストもかかるため週末だけ家族と過ごすという生活です。(建設労働は仕事のあるときとないときがあります。また、中国など外国人労働者の雇用も増えています。)

    シンディアナでは、講師を招いて月1回の品質向上セミナー(衛生・品質管理強化)を行なっています。全員が参加することは、仕事への意欲向上にもつながっているようです。

    訪問した時、アベッドさんがデイル・ハンナ村とラーミ村からオリーブオイルを運んできたところでした。今シーズン最後に収穫したものです。離れた場所のオイルを運んだので「ミッション・インポッシブル!」と笑っていました。いま、デイル・ハンナ村のアベッドさんが約20世帯、アーラ村のムギーラさんが約10世帯、イクサール村のハデルさんが約10世帯のオリーブ栽培をまとめています。アベッドさんは、農業の専門家で農業だけで食べていきたいと思い続けながら実際には難しく、ラーミ村の農業学校の先生もしながら農業をしています。

    さて、今回はオリーブのボトル詰めを見たい、というタイミングで訪問の予定を立てていったのですが、ちょうど、蓋閉め機械を修理に出しているところでした。

    パレスチナ・オリーブ向けのオリーブオイルは、これから寝かせて澱を沈ませてから出荷、4月末にお届け予定です。(後日註:5月になりそうです)

    シンディアナのいまの課題の一つとして、マーケティングやPRに必要な人を雇いたいけれど、パレスチナ女性で英語ができる人を探すのがなかなか難しい、と言っていました。イスラエル内のパレスチナ人たちは母語のアラビア語の読み書きの他、ユダヤ人の使うヘブライ語の読み書きができて、さらに英語も、、、となると大変です。

    このほか、コフル・マンダ村のバスケットのプロジェクトも訪問しました。昨シーズン、オリーブの枝で編んだカゴは少量仕入れ、すぐに売り切れてしまいました。カゴに使うオリーブの枝は1年目の枝で、夏の終わり〜秋冬に集めます。ちょうどいいものを見つけるのが難しいそうです。また、ナツメヤシで編んだカゴについては、初めはサンプル通りに編んでいましたが、最近は、個性を出して編むよう勧めているそうです。尻込みしてしまう人もいるそうですが、付加価値をつけるため、発展の方向の一つだと思います。

    不況の影響

    世界不況のため、ヨーロッパのフェアトレード団体から注文のキャンセルがいくつか出ているそうで、驚きました。ある団体は、アーモンド8000袋の袋詰め、ラベル貼りまで終わったところでキャンセル。他の団体はオリーブオイル2トンの注文をキャンセル。農産物ですから、収穫のときにはおよその注文量の把握が必要で、予定していた注文のキャンセルは大変なことです。「パレスチナ・オリーブは大丈夫なの?」と訊かれました。私たちも注文は収穫期前の9月頃で、金融不況の影響がこんなに日本の実体経済にも及ぶとはわかっていない時期でしたが、注文を減らす、という発想はありませんでした。シンディアナのような、マーケティング担当の人もいない小さな団体では困り果てることが目に見えているので。

    昨シーズンから現地におけるオリーブオイル価格が大幅に上昇したためオリーブオイルは来春から値上げになりますが、今後ともよろしくお願いします!

    ガザ攻撃への対応

    ガリラヤ地方では、攻撃直後は、抗議するパレスチナ住民とイスラエル警察の「衝突」があったそうで、1月2日には、ガリラヤ各地、各派のパレスチナ人たちが集まってサフニーン村で10万人規模のデモがありました。私が訪問したときには「衝突」はなくなっていましたが、ガリラヤの村の内部では、毎週金曜日にデモがあると聞きました。そして、シンディアナの事務所/倉庫のあるコフル・カナでも多くの人がハッタをつけているのを見かけました。

    3日には、テルアビブで、攻撃に反対するユダヤ人とイスラエル内のパレスチナ人が一緒の1万人規模のデモがあり、グッシュシャローム(パレスチナ独立を支持するシオニスト左派)など約20団体が参加、シンディアナやマアン(パレスチナ労働者のための団体でシンディアナの協力団体)のスタッフも参加しました。(写真:ヤーファに住むマアンのパレスチナ人スタッフのアスマさん。臨月のお腹で呼びかけ中)

    しかし、イスラエルのユダヤ人の中では、ガザ攻撃への支持が9割近く。一応、左派系の新聞紙「ハアレツ」でも、数人の記者をのぞいて、賛成一色という状態でした。

    戦争に反対する詩や絵を使った小冊子を作るために最初に持っていった印刷屋さんでは印刷を拒否されてしまったそうです。

    1月の3週目になると、「ハアレツ」でも一部の論調が変わってきました。10日には、ピース・ナウ(労働党支持のシオニスト団体)が初めてデモを行ないました。新聞でも「そろそろ十分痛めつけたのではないか。ピース・ナウも反対し始めたしイスラエルの世論が割れないうちに止めた方がいい」と。また、17日頃には、イスラエルの人権団体が、ハアレツ(ヘブライ語版)の一面全部を使って、ガザで殺された数十人の子どもたちの住んでいた場所と名前、年齢を並べた、攻撃終結を求めるアピール広告を出していました。

    ハイファはユダヤ系イスラエル人とパレスチナ系イスラエル人の両方が暮らす町です。毎週金曜日にウィメン・イン・ブラックなどの人たちがデモをしています。16日の参加者は数十人でした。17日夜にもデモがあるが、参加者は60人くらいだろうと聞きました。西エルサレム、テルアビブ、ハイファと見た場所は少ないですが、イスラエルの町は普段と全く変わらないように見えました。

    選挙

    2月10日はクネセト(イスラエルの国会)選挙です。イスラエル国内のパレスチナ人の投票率は毎回低く半分程度ですが、今回はもっと下がるだろうと言われています。また、中央選管が「イスラエル国家に敵対する要素がある」とアラブ政党の選挙参加を禁止する決定を出しましたが、裁判所で覆りました。

  5. (続)イスラエルの兵役拒否

    イスラエルでは、18歳から男性3年、女性1年9ヶ月の兵役が義務づけられています。また、その後も予備役兵として1年に1ヶ月の兵役に就きます。

    『ぜいとぅーん』30号(2007.10.4発行)で、ガリラヤのシンディアナのユダヤ人スタッフ、ハダスさんの娘のケセムさんが兵役の年齢を迎える、ということを書きました。その後どうしていたのでしょうか。

     

    「今は、ボランティアに参加して兵役を『延期』しています。南部ネゲブ地方のベドウィン(イスラエル国籍のパレスチナ人)の学校に行ったりしています。普段はユダヤ人の若者たちの共同生活で、週末だけ家に帰ります」

    「でも、いつまでも延期はできないから兵役拒否の方法を悩んでいます。兵役拒否の方法には4つあり、委員会に出て話をしなければなりません。

    • 宗教的な理由(ユダヤ教の宗教学校進学)
    • 身体的な困難
    • 精神的な困難
    • 政治的な兵役拒否(博愛主義など)

    簡単なのは「精神的に問題があって無理」と言うことですが、私はきちんと政治的に拒否している、と言いたい。でも、その場合、いろいろ質問され、考えを変えるよう説得されます。「博愛主義や非暴力主義と言うけれど、相手が撃ってきたらどうするんだ?」など。うまく答えられる自信がありません。それに、政治的に拒否して刑務所にも入りたくありません。」

    ハダスさんは、「両親が反シオニストでイスラエルの国家に反対していて兵役を許さない、って言えば?(実際に、他のユダヤ人スタッフの娘さんが過去に「親が許さない」ことを理由にして兵役を拒否したそうです)」「刑務所に入ると言っても、1ヶ月か2ヶ月でしょう??」などと言っていましたが、ケセムさんは親のせいにはしたくない様子でした。

    ユダヤ人女性が兵役を拒否した場合、これまで投獄はほとんどなかったのですが、最近対応が厳しくなり投獄されることもあります。

    そして、ハダスさんが弟のことを話してくれました。(ケセムさんにとっても初めての話だったようです)

     

    1982年のイスラエル軍によるレバノン侵攻の際、弟は「人を殺したくない」と軍務拒否をしましたが、その後も、年1ヶ月の予備役にはずっと就いていました。

    ある日、ジェニンの検問所で通行人のチェックをしていたとき、オリーブ農家のアベッドさんがやってきました(分離壁ができる前はガリラヤ地方からジェニンに買い物などに行く人は多かった)。弟は、恥ずかしくなって詰め所に隠れたそうです。私と一緒にアベッドさんとは家族ぐるみのつきあいをしていたから、IDをチェックして「通れ」なんて言えなかった。それ以来、予備役兵としての兵役も一切拒否するようになりました(拒否し続けているうちに、召集も来なくなりました)。

     

    *ユダヤ系国民の9割がガザ攻撃を支持、という中で、ごくごく少数の人たちです。今回、12日頃に初めてガザでの「軍務拒否」があった、と聞きました。

  6. ガザ、ガザ、ガザ、、、

    昨年末2008年12月27日に始まったイスラエル軍によるパレスチナのガザ地区に対する大規模空爆、年を明けた09年1月3日からは地上侵攻。圧倒的な軍事力でもって、18日にイスラエル軍が「一方的停戦」をするまでに1300人以上の死者と5500人を越える負傷者を出し、約4000軒の家を全壊させ、16000軒を部分損壊させています。

    「停戦」にはなりました。しかし、封鎖という名の「包囲攻撃」は続いています。また停戦は合意によるものではなく一方的なものであるため、イスラエルはいつでもガザ攻撃を再開できるとし、実際上空にはつねに無人戦闘機を飛ばしています。「停戦」後、数度の空爆がありました。事態は何も変わってはいません。

    ガザ地区は、ひじょうに狭い地区(東京23区の2/3)に150万人ものパレスチナ人が生活しています。1948年のイスラエル建国によって、パレスチナの各方面から避難民が押し寄せてきたためです。その後ガザ地区は、67年の第三次中東戦争までは事実上エジプトが管理、そして戦争によって、ヨルダン川西岸地区などとともに、イスラエルの占領下におかれました。それ以降、西岸・ガザ両地区からのパレスチナ人労働者を低賃金労働者としてイスラエル側で働かせてきました。オスロ合意以降は、パレスチナ「自治」を名目に、労働許可を著しく制限し、この時期からガザ地区をフェンスで完全に包囲しました。イスラエルの規制によって占領地の経済発展は妨げられたまま、イスラエル製品だけが市場に溢れ、パレスチナ人の失業率は高まり、両占領地は、自治という美名のもとにイスラエルの「巨大な監獄」へとその地位を下げただけとなりました。

    そのオスロ合意によってもたらされた貧困化が不満となって爆発したのが、2000年からの第二次インティファーダであり、それが06年からのハマス政権誕生へとつながりました。他方で、93年、00年、06年と、段階的にガザ地区の封鎖は厳しくなっていく一方でした。ハマス政権発足直後から、すでに食糧と医薬品の不足は始まっていました。そして一年前の08年初めから封鎖は限界を超え、国連の配給さえ止まり、医療崩壊も引き起こしました。 *2008年2月末のガザ空爆のときも、『ぜいとぅーん』32号に「ガザ地区の歴史と近年の状況」「完全封鎖」について書きました。詳しくはご参照ください。

    イスラエル軍はなぜガザ攻撃をしたのか?

    この軍事作戦を、大手メディアは、ほぼイスラエルの主張通り、失効した停戦期間の延長を拒否したハマスの側が最初にロケット攻撃をおこなったと、いう論調で伝えています。

    しかし、実際には、ハマスの支持離れが進まない事態にしびれを切らし、イスラエルは武力でハマス政権の弱体化を狙ったと思われます。年末年始、アメリカの大統領交代、イスラエル総選挙前、このタイミングで計算づくで攻撃に踏み切りました。報復も自衛権も一切関係はありません。

    それでもなお、ハマスがロケット攻撃をするからイスラエルに口実を与えるのだという見方をする人もいます。しかし、ハマス政権成立後から、停戦を守っているハマスに対して、空爆と侵攻を続け挑発してきたのがイスラエル側であったこと、今回も停戦期間内だった11月初めにイスラエルが攻撃を仕掛けたことは指摘されなくてはならないし、他方でガザ地区からのロケット弾については、ハマス以外の党派(ファタハ系もある)がハマスへの対抗から撹乱目的で撃つケースや、イスラエルへの内通者がイスラエルの攻撃の呼び水として撃つケースもあることは注意を要します。攻撃の口実はイスラエル側がいくらでもつくることができるのです。

    ハマスが問題?

    イスラエルは、ハマスがイスラエル国家を承認せず対話を拒んでいるのが問題だと主張し、また日本のテレビ・新聞もハマス政権について必ず「イスラム原理主義組織」か「イスラム過激派」という説明を付し、非合理なハマス側が問題だという認識を広めています。

    だが、ハマスが06年の選挙で民主的に選ばれた政権であること、および、その政治主張の核心が「占領の完全終結と引き換えのイスラエル承認」、つまり、占領地(1967年の第三次中東戦争で占領されたヨルダン川西岸地区とガザ地区)の内部からすべてのユダヤ人入植地・分離壁を一つ残らず撤去し、国境管理権と制空権・制海権をパレスチナ側に譲渡し、完全なパレスチナ独立国家を認めるのであれば、ハマスもイスラエルを承認し和平交渉をおこなう、という点にあること。この点が重要です。

    ハマスは政権獲得直後から3年間この主張を繰り返してきました。なぜなら、それまでのファタハを中心としたパレスチナ自治政府が、イスラエルとアメリカに支持してもらう形での「体制維持」を優先し、占領を容認してきたという事実があり、ハマスはそれへの批判勢力として民意に選択されたからです。すなわち、ハマスという選択は占領批判という民意による政権交代であったのです。

    この問題は、1993年のオスロ合意にさかのぼります。オスロ合意は、イスラエルがファタハを中心とするPLO(パレスチナ解放機構)を代表として認め、PLOもイスラエル国家を承認する、という相互承認以上の内容をもちません。イスラエルは占領地にあるユダヤ人入植地を撤去させないばかりか、これ以降の「和平プロセス」のあいだも入植地を急速に増大させていきました。その他、イスラエルが併合宣言をした東エルサレムの地位や水の配分権やパレスチナ難民の帰還権など、重要な問題はすべて棚上げにされたまま、イスラエルは丸ごと「承認」を得ました。

    これが「占領の終結」を求めたハマス政権への、そしてハマスを選択したパレスチナ民衆へのイスラエルの「回答」でした。つまりイスラエルの主張は、占領の継続にほかなりません。ハマスがイスラエルとの対話を拒否しているのではなく、逆にイスラエルがハマスとの対話を拒絶してきました。締め上げて兵糧攻めという集団懲罰を加えれば、ハマスへの支持が離れるとイスラエルは見込んだのです。しかしパレスチナ人は、ハマス自体に共感しているというよりは、自分たちの民意を踏みにじられたことに反発し、かえって頑なにハマスを支持し続けました。

     

    いま、世界から復興援助金が集まり始めています。イスラエルは好き放題に破壊した責任を一切とることなく、世界中からの援助金にそれを肩代わりさせることができます。しかも援助物資は、イスラエル市場で調達されるものもあります。ここで「停戦」を喜んでいるだけでは、イスラエルを利する構造は何も変わりません。(早尾)

  7. ガザ緊急支援クッキー

    100g 500円(うち200円が支援)

    いつものオリーブオートミールクッキーを増量し、「ガザ緊急支援クッキー」を販売します。原価300円で200円がガザの生活再建支援に送られます。これは、クッキーを作っているコッペさん、パレスチナ・オリーブ、パレスチナと仙台を結ぶ会の協力企画です。

    支援金の送り先はガザ地区唯一のろう学校でありガザの障がい者を支援するセンターの役割も果たしているアトファルナろう学校(*)です。「パレスチナと仙台を結ぶ会」は2002年から、毎年、中学・高校生や市民からのカンパを集めて送金し、子どもたちへの給食提供を支援してきました。今回は、支援の届きにくいガザの人々、特に障がい者の生活再建支援に活用してもらいます。 
    *「パレスチナ子どものキャンペーン」が支援している学校です。

    編集後記

    エルサレムからラマッラーに向かうミニバスの中で隣に座った年配の男性と話をしました。彼は「1990年代半ばに通訳の仕事で1回ガザに行ったことがある。教育もあるし、自分たちで産業を作っていけるはずの場所だ。ジュース工場を訪問した。海も綺麗だし、、、」と途中で涙ぐんでいました。

    私は、1995年にNGOのスタディツアーで初めてパレスチナを訪問し、ガザにも行きました。まず着いた日の朝に美しい地中海を目にし、そして、民泊などで人々の暮らしに触れ、自分が本やニュースからは人々の日常生活が全く想像できていなかったことに気がつきました。もっとパレスチナの生活が知りたい、その時の気持ちがいまのフェアトレードにつながっています。私はその出会いに本当に感謝しています。

    その後、西岸地区に短期留学中の98、99年に何回かガザを訪問しました。当時は、オスロ合意後、自治政府が来て海外の援助が流入し、ピカピカの庁舎や新しい公園、ガザ空港ができていました。でも、それらは2000年から絶え間なく続く攻撃で大半が瓦礫になっているのです。ガザは2004年から特別な許可をもたない限り外国人の立ち入りが禁じられています。

    ガザ、西岸地区、ガリラヤなどに分断され、パレスチナの人々も生産物も行き来できない状態が早くなくなることを心から願っています。(写真:1995年ガザ、海辺の難民キャンプ)

     

投稿日:2009年02月06日(金)
この記事のURL:http://paleoli.org/?eid=228